<『無知の知』について少しだけ理解が進む日々>
こんばんは。ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
朝から昨日落ちてきた爆弾の処理に追われ、気付いたら夕方。
10連休の1日目は仕事だけをして終了です。
今日は、「無知の知」について考えることが何度かあったので、こちらを紹介します。
「ソクラテスの弁明」 プラトン
<amazonより>
内容紹介
ソクラテスの生と死は、今でも強烈な個性をもって私たちに迫ってくる。しかし、彼は特別な人間ではない。ただ、真に人間であった。彼が示したのは、「知を愛し求める」あり方、つまり哲学者(フィロソフォス)であることが、人間として生きることだ、ということであった。(訳者あとがきより)。
出版社からのコメント
この作品を読む方は「皆さん」と呼びかけられる裁判員の席に坐って、騒然とする野外の法廷でソクラテスの語りに耳を傾けている自分の姿を、想像してください。当日に裁判員に任命されたばかりの法廷で、何が起っているのかもよく分からないまま、告発者メレトスやアニュトスの訴えに耳を傾け、次に被告ソクラテスの言葉を聞いて、その場で票を投じなければならない。さて、その瞬間にあなたは、どんな目にあい、何を考え、どう行動するのでしょうか。 『ソクラテスの弁明』は、私たち一人ひとりに、自分のあり方、生き方を問う作品なのです。 (訳者まえがきより)
◆ソクラテスは何故「死刑」を受け入れたのか
この本の要点になります。
解説には、「死刑を恐れること」=「知らないことについて、知ったように恐れること」であるから、それは「最も恥ずかしい事である」、とあります。
つまり、「死を恐れ逃れること」よりも「真理を求める姿勢」を優先し、死刑を受け入れたことになります。
そして、結果としてその姿勢によって「哲学し続ける道」を後世に伝えたことになります。
◆「『知らない事』を『知っている』」
ソクラテスの代名詞である「無知の知」という言葉。
簡単に言うとこういう事だと思います。
知らない状態を2つの状態に分けます。
- ①「知らない」ことを「知っている」
- ②「知らない」ことを「知らない」
①が哲学的な考え方です。
「自分は何も知らないんだ」という姿勢で、常に学ぶことを忘れません。
「自分が思っている価値観は、ほんとうは間違っているかもしれない」という意識を持ち続け、つねに目の前の出来事に謙虚です。
西野亮廣さんの著書「バカとつき合うな」にあった、
「自分は『老害』になっていないかをいつも注意している」
という発言が、まさにそのことかな、と思い出しました。
◆異なる価値観を排除するということ
②「知らないことを知らない」は、「自分の見ている世界だけが正しい」と思っている状態です。
自分とは別の概念を異質なものとして否定し遠ざけようとします。
ちょうど、読書会で「青い鳥(重松清)」について、検討しました。
その中で、登場人物の中学生が、自分の帝国を作り、価値観に合わない人を排除し続けるという場面がありました。
②の状態を思い出しました。
そして、そういう、自分の価値観の中に閉じこもってしまっている人に対しては、「アドバイス」はできません。
むしろそれが異質なものであり、受け入れられないのです。
◆アドバイスの三重苦
続いては「無理の構造(細谷功)」です。
先日4/21の「彩ふ読書会」で私の「推し本」として紹介しました。
「アドバイス」は、相手に「求められて」いない限り、
・相手は変わることが出来ず状況は一向に改善しない
・なおかつ相手を不快な気分にさせる
・さらにそれを見て自分も不快になる
という「アドバイス三重苦の法則」が秀逸です。
これは、「知っている人」が「知らないことを知らない人」に向かって、もどかしい気持ちになる、という日常的な光景です。
◆「知っている人」こそ注意
では、「知っている人」は偉いのか、というと、決してそうではありません。
「知っている」と思い続けている事で、知らず知らずのうちに「知らないことを知らない人」になっているおそれがあるからです。
なんか、言葉遊びみたいになってきましたね(笑)
「知っていること」に安住することは、「知らないこと」を受け入れない姿勢であるからです。
ソクラテスは、そのように常に、
「私の知っていることはわずかである、だから問い続けることを止めてはならない」
と説いたのです。
やっと戻ってきましたね!!
ありがとうございました。
では今日はこの辺で。