<ガラパゴス化する「知らんけど」>
こんばんは。ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
それでは、園田哲学bar「知らんけど」後半のレポートをお送りします。
前半はこちらにございます。↓↓↓
◆前半のまとめ 「知らんけど」とは?
前半ではおもに「知らんけど」の使用例を出し合い、検討していきました。
・自分の発言に対し断定を避け、「責任逃れ」をするためのもの。
・頭に付けるのと、おしりにつけるのでは、相手に対する印象が異なってくる。
・自分の発言の断定調を和らげ、相手に選択の余地を与える「優しさ・謙虚さ」である。
・説明が面倒だったり、相手に直接伝えたくない場合、「説明を省略する」ために使われる。
◆専門外ですけど発言していいですか?
今までの話から繋がるのですが、確かに~、って思います。
例えば、「野菜を先に食べると、太りにくいんだって。知らんけど。」
というと、医者や栄養士ではないものが偉そうに言うけど、
「知らんけど」を付けることによって、「専門外だけど発言していい権利」のようなもの備わって、相手への受け止められ方が違ってきますよね。
◆「~~か知らんけど」
「君は国立大卒か知らんけど、この文章はひどくない?」という場合。
これは、ちょっとニュアンスが違う使い方ですね。
「あなたのそのような背景は斟酌しません」っていう突っぱねのような感じですよね。
ホント、色んな使い方がありますよね~。
◆「知らんけど」は、「哲学カフェ」そのもの?
そんな感じで、「知らんけど」の事例検討を続けていましたが、
やがて、哲学カフェならではの凄い意見が出てきました。
「哲学カフェ」は、自信が無くても、責任を持たなくても、自由にしゃべってもいい場です。
つまり「哲学カフェ」の発言全てが「知らんけど」である!
そう言われればそうかもしれないですね。
◆「知らんけど」は関西のみでガラパゴス化した言語だから。
最後に、いつも論理的に発言される方から、一同が唸ってしまう発言がありました。
何故、関西以外の人が「知らんけど」を聞くと、不快感を覚えてしまうのか?
という問いに対する考察です。
「知らんけど」は、多くの異なったニュアンスの使用方法が出てきました。これは、関西で「知らんけど」がガラパゴス化した証拠です。
でも、関西以外の人は、その謙虚さだとか優しさだとかの、細かいニュアンスが理解できません。
だから、言葉面のみを捉えて、「知らないのに言うなよ」と不快になるのではないか。
これは、なるほど~~。でしたね。
若者言葉の「ヤバイ」を、別の例として出してみます。
若手社員が、年配の大先輩に対し、「○○さんヤバイっすね~」と言ったとします。
若手社員は「先輩はすごい!」という敬意を示したつもりが、先輩社員は、ヤバイの初期的なニュアンスと捉えて「俺ってそんな危険なやつか??」と不快感を示します。
こういうコミュニケーションのギャップを生じさせている、という考察なのです。
「ヤバイ」とか「カワイイ」とか、ある一定のグループによって多様化した言葉、色々ありますよねー。
「知らんけど」は、思った以上に関西に根付いてしまっている言葉だったのでしょうね。
しかし、ここまで行くと、「哲学」なのか、「社会学」・「文化人類学」なのか??
哲学カフェの無限大のポテンシャルを感じた一幕でした。
◆哲学カフェ「知らんけど」を通じて感じたこと
「哲学カフェ」は、テーマを対話によって深く掘り下げていく中で、楽しさがあるものです。
自分の思考回路では、決して出てこない発想に出会うこと。
自分の思っていたニュアンスと、他人のそれが、違うものであると知ったこと。
いい意味でも悪い意味でも自分の中に作っている「枠組み」というものを、いつも一定量破壊してくれる存在、それが哲学カフェかな~、と思いました。
次回はまた、尖ったテーマになるらしいですよ!知らんけど。
では、また!