<「考え」は変わったっていい>
こんばんは。ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
昨日に引き続き、園田哲学barさんの「きゅうりの味」レポート後編をお届けします。
前半部分はコチラ。
◆前半のまとめ
・きゅうりは非常にポピュラーな野菜であるにもかかわらず、「好き!」という人が少ない。
・それはクセのない薄味と独特の食感によって、何かとの組み合わせでしか存在感を発揮できない食材であるからではないか。
・嫌いな人はウリ類独特の青臭さが気になるようだ。
◆結局「味」ってなんなんだ?
私が疑問として発したこの問い。
味について話しているはずなのに、「『食感』が好き」「『匂い』が嫌い」といったふうに、「味」以外の言葉が出てくるのです。
一言に「味」と私たちは使いますが、それは、「食感」「香り」「みずみずしさ」「相性」などの多くの別の要素が関与していて、そのへんをひっくるめて「おいしい」とか「好き」とか言っているのでしょうね。
改めて、私は何故きゅうりが好きなのかを考えてみると、確かに始めに「味」が来ないで、「食感」「みずみずしさ」「スナック感覚」という感覚的なものが来るなあと、思いました。
それら総合的なものに、あとなんらかの「慣れ」のようなものが関わってきているのですよね。
それが別の方が言った次の意見で見えてきます。
◆「味」は記憶
・味わったときに、過去の記憶を呼び起こしている。
こんな印象的な意見がありました。
ウリ系が苦手な方は、食べた瞬間それを思い出すのです。ウリっぽさを感じた瞬間、「あ、嫌いだ」と思うのです。
芸人さんがイモ虫を食べた時、「エビのような味」という表現を用います。
初めて食べたものにコメントするときは、必ずといっていいほど過去のものを引き合いに出しますね。
・味は「文化」と切り離せない
これも興味深い意見でした。
きゅうりは世界各国に存在しますが、食べ方は国によって全然違います。
いためたり、ジュースにしたり。
先ほどの例を出すと、芸人さんは、イモ虫を食べる前にとりあえず猛烈に嫌がりますよね。
これは、「食べ物のジャンルではないものは、おいしいはずがない」といういわば「文化」であり「記憶」の問題です。
「食わず嫌い」というのも、「味」と「記憶」が関わっているからこその現象ではないでしょうか。
・きゅうりの味は子供の思い出である
確かにそういうところはあります。
ある方は、子供の時からきゅうりといえば漬物であったそうです。
今でも、きゅうりといえば漬物が一番好きとのことです。
・きゅうりを何もつけずに食べる人は余裕のある人?
ちょっとこれは変わった意見です。
余裕のない人は、きゅうりに色んな味を付けて楽しもうとする。
↓
しかし余裕のある人は、そんなことはひととおり飽きて、素材の味に戻って楽しもうとする。
◆きゅうりは、結局個性が無いのではなく、メチャクチャ個性的?
・最初は、個性が無くて好きでも嫌いでもなかったきゅうりという存在が、この会が終わってみると、なんて個性的な存在なのかと、見直すことが出来た。
本日の締めは、ある方のこんな発言でした。
ああ、これは哲学カフェの醍醐味だと思いました。
考え方が変わってもいい。
むしろ変わっていくことを楽しむ。
今日は、好き嫌いの話題に行ったり、サイエンスなところへ行ったりと、哲学カフェとしては異質なものになりました。
しかしながら、無事に哲学的な締めとなった今回の哲学bar、また良い経験をさせていただきました!
来月のテーマは何だろう??
お好み焼きに参加していない私は、しばらく知ることができないのでした。
では、また!