<仏様は「飛ぶ」ということはしない>
こんばんは。ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
昨日に引き続き、園田哲学barさんの「とびたい!」レポート後編をお届けします。
前半部分はコチラ。
◆前半のまとめ
・「とぶ」には、「跳ぶ、飛ぶ、翔ぶ」などいろいろなニュアンスがある。
・「とぶ」とは、「足がついていない」状態である。
・「とびたい」は、イメージとして、「非日常の場所、自分を縛っているものの外へ出たい」願望である。
そこから、後半戦が始まるのです。
◆「飛ぶ」は象徴的な行為
「とびたい!」は、映画「ピンポン」で、窪塚洋介さんが、「I can fly!」といって、川に飛び込む印象的なシーンを思い出さずにはいられない
ある方の意見ですが、「飛び込む」シーンは、主人公が立ち直る節目となる重要なシーンで、まさに「自分の殻を破って飛び出す」といった印象とのことでした。
とある部族では、男子の成人の儀式にバンジージャンプを行う
「飛ぶ」という象徴的な行為、でもうひとつありましたね。
私もそれ、テレビで見たことあります!
「とぶ」という非日常行為を通し、今までの自分と、これからとの分岐点にしようとするのですね。
◆「飛ぶ」という行為は、2つのプロセスがある?
トランポリンという競技では、最も高いところに到達した時、一番自由に動ける。
という意見がありました。
なるほど、最高到達点は 、つまり上昇の力と重力が釣り合った、一瞬無重力な状態ですよね。
頂点のふわっとした部分、なんか自由で気持ちいですよね。(気持ち悪いという可能性もありますが)
ここでふと、「飛ぶ」には、①重力に逆らって飛び上がる(頑張る)、②体が自由になる(気持ちいい・自由) この2つの異なったプロセスがあるのかな、と思いました。
◆鳥が「飛ぶ」のは、特別なことではない
鳥が飛ぶのは、羽根で空気を押して飛んでいるわけで、決して自由自在に浮いているわけではない
こんな意見がありました。この話題では結構盛り上がりました。
考えてみれば、魚はヒレで水を掻いて泳ぎます。人間は足で地面を蹴って歩きます。
そう考えると、鳥が空気を押して空を飛んでいる行為は、何も特別なものでもなく、ただ移動する媒体が違っているだけ、という言い方が出来ます。
そうすると、「とびたい!」は、単なる人間のイメージであり、鳥にとってみれば、余計なお世話なのかもしれませんね。
◆子供は飛べる
子供の頃は、飛べないとは思っていなかった
という意見もありました。
なるほど、これもわかります。
大人になると、何故飛べないのかが理屈でわかります。
でも、子どもの頃は、アニメで普通に人が空を飛んでいるのを見るわけです。
私自身も、「とびたい!」と思うことは、どこか子供に返るような、ノスタルジックな感情になるなーと思いました。
◆「とびたい!」は結局人間ならではの発想
仏様は、「飛ぶ」ということはしない
という意見もありました。(面白い!)
どういうことか?
それは、「飛ぶ」というのは所詮三次元の世界での発想であり、加えて空を飛べない人間ならではの願望であるからです。
仏様レベルになると、そんな時間・空間的な制約はありません。
だから、「飛ぶ」ということはしません。
いつでも、どこにでも現れることができるということかな?
よくある雲に乗ってやってくるイメージ画は、単に絵画的表現だというのです。
◆そろそろ終わります
「とぶ」は、イメージ的には「非日常への脱出」であるけれども、そこはすごく人間的行為である。
今日も、そんなとりとめもない言葉でレポートは締めくくりたいと思います。
どんなお題でも哲学カフェは出来てしまうのだなあ、と、先月に引き続き感心するのでございました。
来月のテーマはなんだろう?そればかり気になっています!
では、また!