<自分で線を引く行為。>
こんばんは。ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
今日書くのは、私が昨年からずっとお世話になっている、「園田哲学bar」さん、2020年1回目の開催です。
◆哲学カフェとは?
・誰もが『対等な立場』で、テーマについて自由に話し合う場
・テーマは身近なこと。(例「お金」「愛」「子供」「嫉妬」)
・哲学の知識は不要(全くもって不要です)
・あるのは進行役と少しのルールだけ
詳しくはHPにて。↓↓
場所:園田地区会館
時間:19時~21時(2時間、途中休憩有)
この日の参加人数:12名。うち進行役1名。
「予約不要」ですので、思いついた時に気軽に寄れます。
年齢層は広く20代~70代ぐらいの方まで。女性は2~3名ぐらいです。
常連さんが多く、いつも優しい雰囲気で場は進みます。
初めてでも、全然違和感なく入っていけますよ。
市民ホールの1部屋で、長机・パイプ椅子を並べて適当に座ります。
19時にスタートですが、仕事帰りの方も多く、途中入室される方も多いです。
持ち寄りbar(アルコール可)で、飲みたい方は缶ビールなどを持ってこられています。
まず、進行役が決めごとについて説明します。
①ここは、自分の意見を通す場ではありません。
→結論は出しません。時間になったら終わりです。モヤモヤとしたものを持って帰れることも哲学カフェの楽しさのひとつです。
②他人の意見をしっかり聞きましょう。
→他の人が発言しているときは、黙って最後まで聞き、発言したいときは挙手をしましょう。
→他人の人格を否定するような発言は控えましょう。
③他人に伝わるように努力しましょう。
→抽象的な物言いでなく、できるだけ「自分の経験」について話しましょう。
こちらでは、お題はあらかじめ決められていて、会の最後に次回のテーマを決めています。
本日のお題は「どうせ、自分なんて、、」
一般的にはネガティブイメージの漂うこのテーマ、どうなったのでしょうか?
では、主要なトピックと印象に残った点、それに関する私の感想を簡単ですが書いていきたいと思います。
◆自分の限界を決めて閉じ込もる「言い訳」
「どうせ自分なんて、」という上の句によく続くのは「〇〇だから。」という下の句。
「絵の才能ないから」「下流階級の生まれだから」「年を取ったから」など、いろいろ浮かんできます。
さらに続けるとしたら、「できっこない!」ってところでしょうか。
この背景にある心理状態をまずは探っていきます。
・投げやり
・やっても無駄
・負け惜しみ
・思考停止
・・・・
このようなフレーズから、
「この『どうせ自分なんて、、、』という言葉を発することによって、自分で限界を作ってその中に閉じこもる。」
という、ひとつの言い換えができました。
どうせ絵の才能が無いから一生売れることがないんだ
どうせ中卒だから出世できないんだ
確かにそうかもしれないけど、自分の努力次第で、その殻をやぶることもできるかもしれないのに、でもそれを言い訳にして諦めるような感じを受けますね。
◆ポジティブな「自分なんて」
「どうせ自分なんて」の持つネガティブイメージについて考察が進んでいたところですが、ある方から、
「私はそういう意味を持って使いません。」という意見が投げかけられ、場の流れが変化します。
「『どうせ、自分なんて失うものを何も持っていないから、ただ立ち向かうだけ』って考えていました。」
あー、確かにそういうのもあります。
私も、仕事や人間関係でモヤモヤすることがあった時、「どうせ自分なんて(人間なんて)地球45億年の歴史からしたらホコリ以下の存在だから」って考えて、いまの悩みなんてどうってことない、って思うようにしています。
その後にも、「『どうせ自分なんて、これしか出来ないんだ』って思うことで一点集中できる」っていういけんもあり、ポジティブ論が補強されたのでした。
◆「線を引く」行為
では、「どうせ、自分なんて、、」にネガティブなものがあったりポジティブなものがあったりするのはどういうメカニズムなのでしょうか?
これについては、先ほどでてきた「自分で限界を決める」っていう意見から展開することが出来るのではないでしょうか。
「自分で限界を決める」=「自分はここまでしかできないっていう線引きをする」
というふうに言い換えることが出来ます。
「どうせ自分はバカだから、こんな難しい話はわかんないよ」っていうのは、自分の理解度のラインを決めたとき、聞いている話のレベルがもっと上のほうにあって、その差に絶望し上に行くことを諦めるという心理でしょうか。
いっぽう、「どうせ自分は失うものが無いから、何でもできるだろう」っていうのは、自分のその分野における地位が最底辺であるからそこに線を引いたら、そこから這い上がっていくしかない状態、っていう感じでしょうか。
「どうせ、自分なんて、、」の線をどこに引くかによって、ネガティブやポジティブは変化するような、そんな感想を持ちました。
だとすると、線を引くところは結構重要ですよね。
その線を引くのは自分なのだから、自分と対象(周囲や他人)との位置関係の測り方ということなのでしょうか。ちょっと表現が難しいですが。
対話の中で出てきたいくつかのフレーズが繋がっていくことによって、テーマの正体が解き明かされていく、そんなダイナミックな時間を経験できる、これが哲学カフェの面白さですね!
◆続きは後半戦で。
前半戦の1時間で、(もしかすると30分ぐらいで)早くも大きな進展を得ることが出来た今回の「どうせ、自分なんて、、」。
後半はそれぞれ深く掘り下げるような、また興味深い展開になりました。
続きは日を改めさせていただきます。
では、また!