ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

哲学カフェに参加しました ~園田哲学Bar 「どうせ、自分なんて、、」②

<腹の探り合い?>

こんばんは。ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。

 

今日書くのは、昨日に引き続き「園田哲学bar」さん、2020年1回目の開催です。

 

この日のお題は「どうせ、自分なんて、、」

昨日に引き続き、レポートしていきたいと思います。

昨日の記事はこちら↓↓

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

一般的には、諦めや逃げやといった、ネガティブなイメージが付きまとう「どうせ、自分なんて、、」ですが、いざ始まってみると、実にさまざまなニュアンスで使われていることがわかりました。

 

・自分の限界を決めてしまって、そこに閉じこもる「どうせ、自分なんて、、(できっこないんだし)」。

・開き直って前向きに行動できる気持ちに変える「どうせ、自分なんて、、(何も持っていないのだから、やってやろう)」。

 

このように「どうせ、自分なんて、、」は、「自分と対象物の間に一定の線引きをする」行為であることがわかりました。

 

◆線引きをして、どうするの?

「どうせ、自分なんて、、」が「線引きをする行為」であるとすると、じゃあ線引きをしてどうしたいのか?という問いが起こります。

 

「どうせ自分なんて、絵描きになれないんだ、、。」っていうぼやきには、

「もう疲れた。これ以上努力したくない。」っていう諦めの意味がこめられますよね。

 

では、この「諦め」についても検討してみます。

これは、誰しも経験する「壁」で、一旦立ち止まったとしても投げ出さず努力を続けたらいずれは成功できるもので、「どうせ」は逃げなんだからあまり言っちゃいけない、という考え方と、

「これ以上努力しても一流にはなれないから別の道に進もう」っていうきっかけになるから、この諦めはそれでいいのだという両方の意見が出てきました。

 

◆他人に聞かせる「どうせ、自分なんて、、」

夫婦喧嘩で妻が夫に対し「どうせ私はバカだから、あなたの言ってることなんてわからないですよ!」と言ったとします。

 

ここでは、「私はバカだからこれ以上理解力を高められない」という自虐的な線引きをすると同時に、「あなたがもうちょっと理解できるように話すべきじゃないの?」っていう相手に対する非難というか要求も込められていますよね。

 

 また、こういったのもあります。「どうせ私はいつまでたっても幸せをつかめないんだ!」っていうぼやきは、聞かされた人は「だからどうしろっていうの?」という類のものですよね。これは「私を憐れんで欲しい」っていう承認欲求が込められているんです。

 

「どうせ、自分なんて、、」は、自分一人でつぶやく時と、他人に聞いてもらう時には意味が異なるということが分かります。

 

◆どうせ、あんたなんて!

ここで、こんな意見が出てきました。

「『どうせ、あんたなんて、〇〇だから』という時はどんな心理なのだろう?」

という問いが発せられたのにはちょっと驚きがありました。 

 

 「どうせ、自分なんて、、」にはネガティブもポジティブもあるっていうのは、予想できた展開だったのですが、その前提をもひっくり返す、「どうせ、あんたなんて、、」が出てくるとは。

 

なぜそこまで驚いたか、それは、私がそれを言ったことがおそらくないからです。

 

「どうせこの人に言ってもわかってくれないだろうけど、、」と心の中で思うことはあったとしても、それを「どうせ、あんたにはわからないでしょうけど、、」っていうふうに言葉にして他人に伝えるというのは、考えられなかったからです。角が立つと思いますからね。

 

しかし場の中には、これを言える方が複数いることがわかりました。

 

私の印象では他人に対しての「どうせ、、」は自分の基準での線引きを相手にしているわけなので、いささか身勝手かなという思いがありましたが、いやそうではない、それは相手にも原因がある、という意見がありました。

 

「どうせあの人の言っていることは嘘だろう」とか、

「どうせあの人は時間通りに来ないだろう」

っていうのは、過去のその人の実績に基づいて線引きしているものであり、過去が無ければこのような線引きはできないはずです。

 

なるほど確かに。他人に突きつける武器のような言葉でもあるのですね~。

 

◆終わりです。

最後にまとめとしての印象的な意見をご紹介します。

「『どうせ、自分なんて、、』を発すること。それは相手との腹の探り合いであったり、要求や交渉の手段として使われたり、はたまた憐れみを求めたり。さまざまなニュアンスを込めているということなんですね。」

 

ここで時間となりましたので、哲学カフェ「どうせ、自分なんて、、」は終わりです。

開始早々から広がったり、ひっくり返ったり、かなりエキサイティングに展開していった、とりわけ印象に残る回となりました。

 

 

このあと、恒例のお好み焼き屋さんでの延長戦。こちらの主催の方や、別の哲学カフェを開催されている方ともたくさんお話をさせていただき、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。

 

次回は2月7日(金)を予定されています。

ご興味のある方は、参加してみませんか?予約不要、時間に行けばだれでも参加できますよ!

cashewnut27.blog.fc2.com

 

 

では、また!