ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

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主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

哲学カフェを開催しました!「笑い」②~彩ふ読書会サークル活動

<内輪ネタは禁断の欲望である>

 

おはようございます。ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。

 

私ちくわがサポーターとして活動させていただいている、「彩ふ読書会」のメンバーを集めて、「哲学カフェ」を開催しました。

 

テーマは「笑い」。

 

先日に引き続き、後半部分のレポートをお送りします。

前半のレポートはこちら↓↓

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

 

◆前半部分のまとめ

・「笑い」とは緊張と緩和である

・「笑い」と「ホラー」は紙一重

・「笑い」をコミュニケーションの道具として使う

 

前半部分では、おもに「笑い」が起こるメカニズムや、自然と起こる「笑い」と能動的に「笑い」を使うことの違いなどについて、話し合われました。

  

前半は、少し堅い感じに話し合われましたが、後半は一転して、一気にくだけてきて、盛り上がったのですが、その切り口として、このような話題となりました。

 

◆「内輪ネタ」は何故面白いのか?そして「内輪ネタ」ばかり繰り出す人はどういう心境なのか?

一番最初に、笑いには万人受けするものと、局地的なものがあるよねという意見があったのですが、それを膨らませる展開となりました。

 

確かに変顔や変な動きなどは、国境を越えて面白いですが、内輪ノリの面白さには敵わない気がします。

 

子供の頃の「先生のモノマネ」なんかは、内輪ネタの最たるものではないでしょうか。

内輪ネタはどこか秘密を共有しているような、独特の魅力があります。

 

逆に、「自分が内輪ネタに入れない」状況について考えると、無駄に腹立たしい気持ちになったりします。

疎外感とでもいうのでしょうか。

 

子供の頃、「とんねるずのみなさんのおかげです」という番組で、楽屋ネタや、業界用語のようなもので、やたら彼らで盛り上がっていましたが、こちらがその笑いについていけず無性に腹が立ったのを思い出しました。

 

あれから何十年も経って、「細かすぎて伝わらないモノマネ」というのもありましたが、あれも、「わかるひとにわかればいい」という、ある意味ひとつの内輪ネタではなかったかと考えるに至ります。

 

内輪ネタは「分からない人を排除して得られる優越感」という禁断の欲望であることがわかりました。

 

では、問いを進めて、実際いる「内輪ネタに頼りがちな人」と「そうでない人」の違いはどこにあるのか?という話題になります。

 

その心理には、自分達だけが知っているという優越感であったり、そのネタを共有できる仲間との繋がりを再確認したいといった欲求があるのでしょうか。

 

ということは、万人受けするほど面白くないやと自分に自信が無かったり、身近な人とのつながりに不安を感じたりするような、どこか繊細な人物像が浮かんできます。

 

オッサンが若い子に「新田恵利って知らんの?」という不毛な確認(時々やってしまいます)も、若い人の話題についていけないからあえて自分達だけに分かる話を持ってきて優越感に浸りたいだけかもしれないですね。

 

◆「あるある」はどうして面白いのか?

お笑いではひとつのジャンルとなっている「あるある」ネタ。

「あるある言いたい~」、「なんでだろう~」、「あると思います」、「チッキショー!」、「もしかしてだけど~」、、、。

どうしてあるあるはこんなに面白いのでしょうね。

 

「共感」や「安心感」というところに、笑いがあるということではないかと話し合われますが、では、何故普段ののあるある話は笑えないこともあるのに、彼らのあるある話は笑いが起こるのでしょうか。

 

それは、「緊張と緩和理論」で考えると、「あるある話のなかでも、ちょっと普通でない人や動作の話だから面白い」ということなのでしょうか。

 

そういえば、吉本新喜劇のオチを知っているうえで、笑うっていうのも、不思議なジャンルですよね。「ネタバレの確認作業」とでもいうような。

 

◆時代とともに変わる笑い

笑いというのは「笑う側」の受け止め方によって大きく変わるのは当然で、そこにはいろんな要素があります。

例えば国(文化)、年齢、性別、考え方など千差万別です。

それを超えてくる笑いは万国共通のもので大道芸や無声映画(チャップリンやピングーなどを思い浮かべた)、超えてこない笑いは「内輪ネタ」ということになるのでしょうか。

時代を超えてくるものとして日本には「落語」というのがあります。

でもそこに出てくるシーンはいつまでも江戸時代の風俗であっては共感できないので、ある程度現代人の感覚に寄せてくる工夫がなされているのだろうという考察もありました。

 

「男児のウンチネタはどうしていつの時代もあんなに笑うのか」というのもあり、個人的には非常に興味のある話題でしたが、時間がなくなりましたので、それ以上話し合われませんでした、残念。

 

◆終わりです。

2時間が経過しましたので、今回の哲学カフェは終わりです。

今回も色んな側面から語り合われ非常に盛り上がりました。

 

今日印象的だったのは、最初のほうに「緊張と緩和理論」が出てきたために、後に出てくる話題が全て「緊張と緩和」に当てはめたらどうなのか、と考えてしまいました。

良くも悪くも、強い枠組みを最初に共有されてしまうと、後がそれに囚われてしまうという面白い体験ができた回となりました。

 

という感想を最後にして、レポートを終わりたいと思います。

参加された方々、お疲れ様でした。

 

最後に私が書いたホワイトボードの写真。 

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では、また!