<自然を守ろうは、まだまだ開発したい人間の欲望?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
昨日は第6回オンライン哲学カフェ
「『自然を守ろう』って、どういうこと?」
についての記事を書かせていただきました。
昨日の記事はこちら。
今日はその続きになります。
◆人間を一度離れてみます
自然を人間とのかかわりにおいて、考えてきましたが、一度、人間を離れて考えてみるとどうなるでしょうか。
自然とは、自分の周りにあるものほとんどすべてが「自然」と呼ぶことが出来ると思います。地面、山、海、空、動物、植物、。
「環境」ともいえるかもしれませんが、それはたまたま地球という惑星において存在するもの。
地球以外でも考えるならば、真空、ガス、光、チリ。これも広い意味で「自然」でしょうか。
それらはもちろん人間がいようがいまいが、136億年前から存在し、人間や地球が滅びるかどうかに関わらず、ただ存在し続けるでしょう。知らんけど。
もちろんこれは極論ですが、地球が守られようが、守られなかろうが、ほんとうの意味での「自然」にとってみりゃ、知ったことではありません。
◆結局は、「人間にとって」良いか悪いか
ちょっと言葉を換えて、「環境に良い」「環境に優しい」という言葉があります。
「環境に良い」ってどういうことでしょう。
では、逆の言葉で「環境破壊」というのを考えてみます。
川や海が汚れたり、生き物が死んでしまったり、砂漠化してしまったりすることですよね。
そうなると、何が起こるでしょう。
地球温暖化、砂漠化、土砂災害、作物が育たない、といったことが起こってきます。
これ、結局は「人間にとって」良くないこととなって返ってくるわけです。
「持続可能な開発」という言葉がさかんに語られています。
この場合の「持続」は何に係っているでしょう?「開発」ですよね。
では「開発」はどうしてしなきゃいけないのでしょう??やっぱり人口が増えてしまったから?もっともっと快適に暮らしたいから?
「自然を守ろう」というのは、結局のところ、人間活動、それも開発・発展する前提において、発展の妨げとならないよう、自然を破壊しないようにしよう、ということになっているように思いました。
「守ろう」という言葉、それ自体が、人間は自然の一部であることを忘れて、自然をコントロールできる神の存在であるかのごとく驕りを感じる。
こんな意見を受け、やっぱり「守ろう」「大切にしよう」っていう表現はどうかと思うに至ります。
それならば、「共存する」?それでも畏れ多いなら、「間借りさせていただく」?(笑)
◆「田んぼ」は自然か?
これは面白い問いでした。
「田園風景」「里山を守る」という言葉があるように、田んぼや野山は「自然」というイメージです。
でも、田んぼはよく考えると人工物です。山だって、杉やひのきが植わっています。
憩いの場の公園や観光地なんかも、ほとんどが人工物?
そういえば、「手つかずの自然」というのもありますね。
手つかずの自然があるなら、「手の付いた自然」もやっぱりあるということですね。
人間が自然なら、その人間の活動の結果である「コンクリートの街並み」は自然とは言えないのか?
これも面白い問いですね。普段使われている人間の対比としての「自然」なら違うけど、思いっきり広く考えてみると、それも自然かもしれません。
コンクリートだって鉄鉱石だって、自然にあった岩石から作られていますしね。
そんな感じで、問いは進み面白い展開になりましたが、哲学カフェも制限時間の2時間が近づいてきたのです。
最後に、私の個人的な感想を述べたいのですが、こちらも時間となりましたので、日を改めさせていただきたいと思います。
では、また!