<「正しさ」は、どこから来るの?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は昨日に引き続き、第7回オンライン哲学カフェ「トロッコ問題」を書いていきたいと思います。
昨日の記事はこちら。
◆もし、大男がとんでもなく悪い奴だったら?
今日は、昨日の続きで「大男のトロッコ問題」について。
この大男は作業員と無関係なのですが、もしこの男が、「とんでもなく悪い奴だったとしたら、落とすでしょうか?」
という問いが起こり、その後一番の盛り上がりとなりました。
大男が、小さい子供を虐待するようなひどい奴だったら、落とすかもしれない、
という意見はありました。
しかし。こういう意見も。
どんなに「死んだらいいのに」と思っても、実際に落とすのとはちがう
私もこの意見に賛同します。
死んだらいい、消えてなくなってほしいという人がいて、どんなにそう思っていたとしても、実際に自分が手を下すことはない、と思います。
それはやはり、同じ人間として、傷つける、ましてや殺すことなどしたくないからです。
◆直観では
このケースの意見の中で、
「直観では『落とす』と考えても、こうやって色々考えてみると、やっぱり何もできなくなりますね。」
という意見がありました。
この回では色んな「正しさ(正義)」について話し合ってきたように思います。
犠牲者が少ないほうが、正しいのか。
身内を救うことが、正しいのか。
自分で選択できることが、正しいのか。
この意見にあった、「直観では」の部分は、どんな正しさを基準にしているのだろう、と考えました。
でもやっぱり「直観」なので、論理ではありません。
「生理的に嫌」「本能的に自然と」、のようなものに近いのかもしれません。
バレなきゃいいや、っていう気持ちは確かに無いことは無いけれど、やっぱり人を傷つけたりするのは嫌だ。人が傷ついているのを見るのも嫌。
「神様が見ているから」という言い方をしますが、例えていうならそうかもしれないけれど、何となくしたくない。
そんな「直観」もやっぱり「正しさ」のひとつではないでしょうか。
◆自分が死ぬとしたら?
この日はあまり語られませんでしたが、もし、「死ぬのが自分である可能性であったら」というのを、検討するのもとても面白いでしょう。
例えば、この場面。自分がトロッコに乗っていて、進路を切り替えることができるとします。
そのままAのほうに進むと、5人を轢いてトロッコは止まる。Bの待避線の先には崖があって、落ちて自分が死んでしまう。
自分が死ぬかどうか、の場面では、私は5人を轢いて止まる方を選ぶかもしれませんね。それこそ「直観」で。
でももし、レバーを切らないほうが、自分が落ちる方で、レバーを切る方が、人を犠牲にして自分が助かるほうだとしたら?
ひょっとしたら、それならレバーを切らずにそのまま落ちていくかもしれません。
そのぐらい微妙な問題だと思います。
◆終わりです。
この日は2時間を経過しても終わりそうになかったのですが、22時10分ごろに進行より終了が宣言されました。
このような思考実験は、実際にはもっと選択肢があるところを敢えてそうしないことによって、自分の行動の原因となる考えを見つめ直すいいきっかけになったと思います。
だから、「そんなありもしないこと議論してどうすんねん」的なことが言われるように結論にあまり意味はなく、その考える過程にこそ意味があると思います。
そして、他人の価値観や考え方の違いがよくわかる、気付きの多い回となりました。
では、また!