<死は怖くはないけど、待ち遠しくもない>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
第8回「明日死ぬかもしれません」の続きを書いていきたいと思います。
昨日の記事はこちら。
昨日の記事では、「死ぬ前に後悔すること」「自分が死んでも世界は回っている」などについて書いていきました。
今日は、最後の部分と、私の感想を書いていきたいと思います。。
◆自分で死ぬことを決められるということ
「永遠の命を得るとしたら、どうするか」
こんな話題がありました。
古今東西、物語には不死の人が出てくるのがたくさんあります。
読書会でやった「ガリバー旅行記」には、死ねない人は悲惨なものとして描かれていました。
しかし人は普段死ぬことを恐れ、出来るだけ死なないように努めます。
永遠の命というのは人類史上の悲願となっているのも事実です。
しかし、いったん永遠の命ということを考えてみると、そうではないことに気づく人も多いと思います。
ここで私が思い出したのが、思考実験の、「5億年ボタン」というやつです。
生きるということを考えるのに、まず死ぬことを考え、そのうえでもし死ななかったら、を考えるというのは、とても大切な事だと思います。
「自分で死ぬことを決められる『自死』『安楽死』というのもある」
という意見もありました。
これについて語り合う時間はほとんどありませんでしたが、こちらも人によって様々な意見が出てくることが考えられる非常に興味深いテーマでしょうね。
◆最後に、感想
今回の哲学カフェのテーマ、「明日死ぬかもしれません」は、自分の人生観について
見つめ直す良いきっかけになりました。
ある方の意見で、
「明日死ぬとしたら、故郷の風景に触れていたい」
という意見があり、あぁ、素敵だなぁと思いました。
私も、死ぬ間際には、おそらくやり残したことや、残された人はどうするだろうかということは、少しは考えてしまうんだろうとは思います。
しかしながら、それよりも、最後ぐらいは、自分の人生が終わるんだ、ということをしみじみと噛み締められる、おだやかな時間にしたいなと思います。
だとすると、故郷の風景の中で静かに身を置き、家族や今まで世話になった人を思い出して感謝し、ついでにこの自分を育ててくれた自然に感謝し、死を迎えられたらと思うのです。
といったところで、今回の哲学カフェのレポートを終わりにしたいと思います。
では、また!