<『いま』の過ごし方>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
着々と回を重ね、今回が10回目となります。
今日は昨日の続き。オンライン哲学カフェ「消費と創造」の感想を書いていきたいと思います。
昨日の内容はコチラ
◆「創造」って何?
昨日は「消費」とはどんなものか、消費についてつきまとうどこかしらイメージの悪さについて書いていきましたが、今日は、もうひとつのテーマである「創造」について話し合った内容と感想を書いていきたいと思います。
最初に戻ると、出題者の意図では、「消費」をばかりして、「創造」をしていない人が多いのではないか、という話がありましたが、消費が「悪」で、創造が「善」なのでしょうか。その前に、「創造」って、何なのでしょうか?
まずはそこから考えていきたいと思います。
「創造」というと、神様が天地や人をを「創造した」というように、「初めて作った」とか、「生み出した」というイメージになります。
参加者の言葉を借りていうと、「ひな形のないものを最初に作ること」という表現がしっくりきました。
そう言い換えられたとすると、「消費」と「創造」は、対になる言葉ではないことがわかります。
「消費」と対になる言葉は、「生産」のような広いものであって、「創造」は生産の一部であるようなイメージでしょうか。
別の参加者からの意見で、「消費している人は、対価としてお金を払っている。そのお金を得ているのは生産活動をしているからで、『消費しかしていない人』というのはあてはまらないのでは」というのがありました。
話が進んでいくにつれ、出題者の最初に意図していた「創造」というのは、「文芸」や「絵画」「音楽」といった、芸術活動のニュアンスを指すことがわかってきました。
「創作活動」とも言い換えられるでしょうか。
だんだん話が進んできたところで、出題者の持っている「問い」というのが自分なりに解けて(溶けて?)きたような気がしました。
出題者の「悪」とする「消費」は、現代社会において企業が提供するパッケージ的な仕掛けを消費するもの、携帯ゲームや映画やテレビなど、目の前に与えられたレジャーをとりあえず選んで漫然と消費する行為のことを指すのではないでしょうか。
そして、「善」とする「創造」は、もう少し能動的な立場に立って、自分の好きなことにフォーカスすること、そしてその活動に、自分なりの「クリエイティブ」な部分があるかどうか、そこに価値を見出しているのだと思います。
「消費」に立ち返って考えると、私たちの活動は、「いま」を消費していると考えるとわかりやすいかもしれません。
漫然と「いま」を消費しているか、はたまた未来に価値を残していく「いま」を過ごしているか、そこが重要なんだと思いました。
こんなところで、第10回オンライン哲学カフェのレポートを終わりにしようと思います。
次回は、ちょっと趣向を変えた実験的開催にしたいという意見が出てきたので、お楽しみです♪
では、また!