<残虐って、どういうこと?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今回は第14回となります。
今日は昨日の記事の続きです。
昨日の記事はコチラ。
◆「残虐」とは?
主人公のセリフに、「残虐な行為をやめさせなければ」というように「残虐」という言葉が度々登場します。ではその「残虐」というのはどういうことでしょうか。
支配階層である牛が人間を食べることが残虐であるとするならば、地球で人間が牛を食べることも残虐になるということです。
しかし人間が他の動物を食べることが残虐だと思っている人はあまりいないと思います。
それに対しあるメンバーが、
「自然に生き得る寿命を全うする前に殺したことを残虐と呼んでいるのでは」
と言ってくれました。
確かにそういう意味では残虐なのかもしれません。
しかし人間も動物である以上、生きていくために他の動植物を食べなければなりません。そのうえで動物を殺すことは別に不自然なことではありませんよね。
残虐とは、むごたらしいとか、無慈悲とか言い換えることが出来ますが、家畜を食べる行為は、それにあたるとは思えないのです。
少し話は散逸しますが、アジアには犬を食べる民族がいます。しかし犬は人間のパートナーだから食べるのはおかしいという意見も多数あります。
日本人がクジラを捕って食べることに対しても同様の意見があります。(まあ日本人さえも最近はほとんど食べることがなくなりましたが。)
それはクジラは高等動物であるから、殺して食べるのは残虐だという意見なのですが、高等動物を殺して食べてはだめで、下等動物なら良いというのはどうしてでしょう。
そもそも「高等動物」というのは誰がどういう基準で決めた区分なのでしょう?
「文化」や「習慣」という言葉で片付けるのはいささか乱暴かもしれませんが、結局のところ自分たちが属するグループの価値観に基づいてこっちは正しい、そっちがおかしい、という言い合いをしているだけなんですよね。
価値観が違うのはある程度仕方がないとしても、どこかで譲り合うことがなく、平行線をたどってしまっていること、を表現しているところがこの漫画の重要なメッセージではないでしょうか。
支配者階級の牛が、
「食物連鎖の一環に過ぎん、やがてみんな土に還る、うらみっこなしだ」
といった作中のセリフが印象に残ったのですが、
しかしその後、
「では死にたくないとミノアはいったのか?」と主人公に問いかける怖い表情が印象的であるという意見もありました。
これが表す意味としては、「地球において人間が単なる食物連鎖の枠を超えて、あらゆる動物の生殺与奪の権利を持っているかのような錯覚に陥っていること」ではないか、という話もありました。
うーん、藤子作品、深いです。
◆生きる意味、死ぬ意味
祭りの主役として供されることになるミノアちゃんですが、彼女の発言で印象的なものがありました。
「ただ死ぬだけなんて、なんのために生まれてきたのかわからないじゃないの」
自分は皆に美味しく食べられることで、役に立って死ねるいう事の喜びですね。
私は常々、死んだら終わりで、それはみんな平等という考えなのでそのような発想を持ち合わせていないのですが、こういう考え方もあるということも別に不思議ではありません。
生きる意味、死ぬ意味という点では、もっと話が膨らむポイントですね。
◆終わりです。
たった35ページほどの漫画でしたが、今回もなかなか盛り上がった2時間の哲学カフェとなりました。
短いからこそ、断定していないからこそ、さまざまな想像を基に話が広がるというのもあるかもしれませんね。また課題図書形式の哲学カフェをやってみたいと思いました。
では、また!