<区別とは?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
女子高生って、みんな同じに見えてしまいます。
よく見ると、大人びた子、ギャル系、など、いろいろいるはずなんですが、歳を重ねるにつれて、年々同じにしか見えなくなってきました。
これは、どういうことでしょうか?
では、同じに見えていなかった時は、どうだったのでしょうか。
先ほども言いましたが、服装や雰囲気など、容姿による違いを、気にしていたと思います。
その区別する基準は簡単に言うと、自分の好みか、そうでないか、によるところが大きいんじゃないでしょうか。
自分の年齢が女子高生達に近かった時は、すなわち恋愛対象としてみていたわけですね。
でも、歳が離れてくるうちに、恋愛対象として見れなくなってくるんですね。
そうすると、ただでさえ同じような服装やファッションが多い学生という存在ですから、違いが判らなくなってきます。
ポイントは、近い存在であるか、遠い存在であるか。恋愛の対象として見ているか、そうでないか。その辺にありそうです。
全然変わって、石を例に挙げてみます。
道ばたにころがっている石は、どれも「石」ですが、それぞれ分類されるための名前がついているはずです。大理石、石灰岩、雲母とか(よく知らんけど)。
でも道ばたにころがっている状態のものを石灰岩とか呼ぶ人はいません。
区別して呼ぶときは、あくまでそれを利用する、必要としている人だけ。
もしくは、遠く離れてみると、黒い石・白い石、大きな石・小さい石、程度の違いしかわかりません。
以前、「ちょっと離れた視点から見てみると」という記事を書いたことを思い出しました。
ソシュールが、「言語とは、区別のシステムである」といったように、「名前」そのものが区別するためのものなんですね。
だから、区別する必要のあるものについては名前がついてきて、無いものには名前が付かない。
おニャン子クラブ(昭和)は、それ自体がグループ名ですが、その中にも「うしろゆびさされ組」などの派生グループや、「国生派」などの派閥があったり、ファン以外にとってはまったく意味のないことですが、ファンにとっては非常に重要なところです。
ということは、「名前」とは、区別する必要がある人がいて初めて、成立するということになります。
よくよく考えてみると当たり前のことなんですが、これは重要なところです。
例えば「自分」という存在は、「自分」を区別する自分がいなくなったらもう何もなくなってしまうからです。
だから自分がいなくなった世界では、自分が認識していた「世界」すらなくなるから、自分の家族が自分のいない世界を過ごすというわけではなくなるということになります。
自分で考えていて難しくなってきましたので、時間も来ましたし、この辺で終わりにしたいと思います。
では、また!