<「恥」を受け入れられる人>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今回のテーマは「大人」。
今日は昨日の続きを書いていきたいと思います。
昨日までの記事はコチラ。
昨日は、「大人になるって、いいことなの?」について書いていきましたが、大人になって、周りの人や、自分の未来に対し想像力を働かせることができなければ、社会人としては生きづらくなる、と書きました。
その想像力を働かせる結果、今素直にやりたいと思うことや、言いたいことを我慢することになります。
それが決して「楽しい」とはいえないなぁ、大人って面倒だなと思うんですね。
国会答弁でもありますよね。真実はほとんどわかっているのに、当人は決して認めずに嘘をつき通すような。
自分の仕事でもあるなぁと思います。本心では別のことを思っているのに、自分の立場上、こう言わないといけないから言う、という時、よくあります。
◆「恥」を受け入れることができる人
話は変わり、「恥を受け入れることが出来る人が大人」という意見が出てきました。
素直に「ごめんなさい」が言える人、という表現もありましたが、この恥を受け入れるというのは、どういうことでしょうか?
これも、「今、恥を受け入れる」か、「受け入れないか」どちらの選択をするかによって、未来にどうなるか、想像力を働かせて、「今、恥を受け入れる」という選択をしている、ということのように思います。
自分においての過去の経験なども踏まえて決断してるんだと思います。
実際のところは、気持ちは許していないけどここでは譲るとか、許せる気持ちに変化するとか、色んなパターンがあって、
掘り下げて考え出すとかなり時間が掛かりそうなので、別の機会に触れたいと思います。
◆実際の哲学カフェの雰囲気はどうなの?
今回の哲学カフェの振り返りはこの辺で終わりにしたいと思います。
私がこんなふうに割とまじめに文章を書いているので、読まれている方は、「哲学カフェって、難しいことを考えなきゃいけないな」とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、実際どういう話をしているかというと、「目の前に鼻毛が出ている人がいたら、何と言うのが大人の対応なのでしょう?」などといったくだけた問いが発せられ、それについて、「そりゃ言えないでしょう!」など、ワイワイ意見を出し合ったりしてます。
「哲学」っていうので、難しい哲学用語が飛び出すのでは、とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、哲学用語はほとんど出てきませんし、私含めほとんどの方がいわゆる学問としての哲学の知識を勉強していたことはありません。
じっさい、難しい言葉が出てきたときは、皆に理解しやすいように補足説明してもらっています。
では哲学カフェとはどのようなものか、どの辺が哲学なのか、という問いに対しては、
自分がいま大切にしたいと思っていることが2つあってそれを紹介させていただきたいと思います。
ひとつは「価値観の交換」、もう一つは「本質の探究」です。
これらについて、もう少し詳しく書いていきたいと思いますが、今日は時間が来ましたので、ここまでにしたいと思います。
では、また!