<環境の「外」にある現象>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、この本。
内容<amazonより>
この本は、基本的には脱・原発論ということになるのですが、「原発はこうだから反対だ」という構成になっているのではなく、「原発は不要」という立場を最初にとったうえで、「なぜ、人々は原発の魅力に取りつかれてしまったのだろう?」というところを掘り下げていっているところが非常にユニークであると言えます。
◆原発は不要と言えるが
最初に、「原発による発電コストは決して安くない、だから原発は不要であるということでほとんどよい」と述べられています。
この根拠については、出典
をもとに紹介されていますが、現在の日本の場合、用地取得から核燃料サイクルにかかる費用について加味すれば決して他の電源と比較し安いわけではない、更に事故リスクや核廃棄物の将来コストを考えると、いま「原子力発電でなければならない」という理由は合理的に考えてほとんどないように思われます。
政治的なところでいうと私はあまり知識がないので詳細を述べることは出来ませんが1950年代から時間をかけて形成されてきた「原子力信仰」が依然力を持っていて、なかなか脱原発に舵をきれない、というところのようです。
3.11以降、日本においても原子力信仰に対する空気は随分変化しましたが、
本著「原子力時代における哲学」では、この時代にどうして「原子力の平和利用」に世界は突き進んだのか、あれだけ悲惨な原爆の被害を受けた日本でさえ、原発を次から次へと作りまくることになったのか、について哲学的に考察してみて、今後に向けてどうすべきなのか考察、という内容になっています。
◆エネルギーを支配できるという欲望
結論的に言いますが、なぜ、「原子力」だったのかといえば、「永久機関のような、独立してエネルギーを供給できるものを支配できるという欲望」だったのだろうということになります。
エネルギーを支配することは、国家を運営するうえで最重要課題となります。戦争の原因の大部分はそこにあるぐらいですから。
中沢新一氏の著書、
では、原子力の利用は「第7次革命」と呼ばれています。
「火の利用」に始まり「石油と電気」まで続く、それまでの革命はすべて、地球に降り注ぐ太陽エネルギーを何か(石油など)が「媒介」してそれを人類が「活用」していた状態でした。
しかし原子力の時代になって初めて、そのような媒介を経ないで直接、核の反応という、地球上には存在しない、「環境の外」にある現象を作り出そうとしている、と中沢氏は述べています。
そしてその「環境の外」にある現象は、ある意味神の領域のようなもので、とても人間に「制御」できるようなものではない、といいます。
はじめての原子力発電ができてから、60年以上経過した現在でも、このような事故がおこってしまうのは、原子力を「制御」しきれていない証拠であるといえます。
國分氏はこの中沢氏の著書を引用し、
原子力発電というのは、その「環境の外」にあるよくわからない現象を人間が「制御」しようとしている。
いい加減、この「制御できる」「制御しよう」という考え方を改めていってはどうか、という結論に持っていくのですが、
その過程で、ピタゴラスに遡り、さらにハンナ・アーレントやハイデッガーを持ち出します。
そして、ハイデッガーの「放下」の解読というのが本書の中心となります。
この「放下」については、結構わかりやすく書かれていると思うのですが、それでも私にとっては難しく、また知識がなさ過ぎてあれこれと論じることができません。
なので、ざっくりとした感想を書くにとどめておきます。
と、思いましたが、時間が来ましたので、続きは、日を改めて書かせていただきます。
では、また!