<演じるは幸福度を下げること?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は昨日に引き続き、第18回オンライン哲学カフェ「演じる」の続きについて書いていきたいと思います。
昨日の記事はこちら。
昨日の記事では、
・「演じる」とは、意識的・無意識的に関わらず日常的に行っていること
・その「演じる」ための「規範」のようなものがそれぞれの場において存在していること、
・もし「演じなかったら」社会生活ができなくなるだろうということ、
・「演じていない自分」は「ほんとうの自分」なのだろうか?
ということを書いてきました。
◆「演じる」のは、幸福度を下げることなのか?
「演じる」には、どこか抑圧的なネガティブなイメージが付きまとうものです。
家庭で、会社で、学校で、、自分が正しいと思うことややりたいことをひとまず置いといてやらなくてはいけないことがあります。
わざわざ効率の悪い会議を延々と続けたり、社長の意志だからと顧客に理不尽なお願いをしなければいけないことがあったり。
だから、このような問いがメンバーからあがったのですが、どうなのでしょうか?
そもそも、演じるとは集団の中で自分の居場所を作る行為であって、それは生きるための手段です。
だから家事や掃除のように、生きている以上必要なコストとして存在するものかもしれません。
しかし、「好きな服を着てテンションが上がる」「きれいな自分の写真を撮って、いいねをもらう」といった、「演じる」ことが幸福感につながることもあります。
相手に合わせることが、相手を幸福にして、だから自分も幸福になる、ということもあります。
メンバーから「自己演出」や「自己防衛」といったワードが出てきましたが、どうやら「演じる」には積極的な面から消極的な面まで、レベルというか、グラデーションのようなものがあるように思われます。
消極的なものは打算的で、積極的なものはどこか地に足が付いたような印象です。
これは、最初のほうにあった、「意識的・無意識的」というものの差にも関係してきそうです。
◆「演じる」と「隠しごと」
メンバーから、「隠しごとが多いほど、演じることに負荷がかかる」という意見がありました。
これはどういうことでしょうか。
店員をやっていて、時にお客さんの面倒な言動に我慢しながら丁寧に対応する。
家庭の外に愛人がいるのに、普段と変わらず愛妻家・子ぼんのうを演じる。
上司の意見が納得できないが、しぶしぶ応じている。
なにか嘘をついている、本心を隠している、という側面が「演じる」にはあります。
では、その行動に反する「本心」というのは、いったいどのようなものなのでしょうか?
昨日も出てきた「演じていない自分」「ほんとうの自分」というのともつながってきそうです。
◆「ほんとうの自分」なんてあるの?
ここで、このような問いが生まれます。
「演じる」とは対面する他人に対し、特定の印象を与えるように行うことであるのならば、「演じる」というのは相手との関係性の中で初めて成り立つものです。
普段家庭では和やかに暮らしている人でも、仕事においてはとても冷徹に・ドライにこなしている人であったら、会社においてはその人は「冷たい人」です。
浮気相手との間に隠し子がいても、その秘密を墓場まで持っていけば、その人には隠し子なんていないし、浮気なんてしていないことと同じです。
それぞれのコミュニティ、それぞれの対人関係の中では、その演じている姿こそがその人のほんとうの姿とイコールになるんではないかと思います。
だったら、「ほんとうの自分」なんてどこにも無いの?っていうことになりませんか。
最初のほうにメンバーが、
「相手が思っている自分と、本当の自分はそうじゃないと思っている自分にギャップがあっても、それを無理に埋めようとしなくていいんじゃないかと最近思うようになった」
というような意見がありましたが、どうやらつながってきそうです。
しかし、ちょっと難しくなってきましたね。
一旦落ち着いて、もうちょっと書いていきたいですが、
時間が来ましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。
では、また!