<芸術は「難しいもの」なのか?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は昨日の続きを書いていきたいと思います。
昨日の記事はコチラ。
◆作品を隔てた、鑑賞者と作家の関係
昨日は、芸術というものは、
作家 ←→ 作品 ←→ 鑑賞者
という3つの相互関係によって成り立っていて、
真ん中の「作品」というものによって、作家と鑑賞者が隔てられています。
作家が作品に意図するものと、鑑賞者が作品から感じるものは、往々にして異なったりするものです。
◆芸術は「難しいもの」なのか
美術展にある抽象画。四角や丸が描かれているだけで、これが絵なのかどうかもよくわからないもの。
公共の施設の入り口に展示されている、金属でできたよくわからない三角形なんてのもあります。
私個人的には、何を表現しているのかさっぱりわからないので、感動を覚えることはありません。「四角と丸だな~」とか、「えらい尖った三角だな~」とか思うだけです。
そして、次に見るのは、題名と解説。ただの三角が「希望」という題名だったりします。
それをわかろうとして、解説を読む。しかし、それでもよくわからないので、勝手にイラついてしまう、というような悪循環が起こってしまったり。
だから、芸術はどうも「難しいもの」という感覚がついてしまっています。
でも、その絵のどこが良いかわからない場合、そうやって無理に作家の意図を考えないといけないものなのでしょうか?
上の図で言うと、作家と鑑賞者の間に大きな作品という壁があって、両者を隔てているようなものですね。
では、音楽について考えるとどうでしょう。
クラシック音楽にしても、ロックにしても、作曲者の意図などあまり考えずに、聴く側が「心地いい」とか、「雄大だ」とか勝手に解釈して楽しんでいることが多いように思えます。
※「4分33秒」という、すべての楽章が「お休み」という楽曲のことが話題になりましたが、そんなのは割と例外的なもののように思えます。
◆芸術とは「突き抜けたもの」?
芸術とは、「どこか突き抜けたもの」がある、といったメンバーがいましたが、アーティストが「新しいもの」を追求した結果として、抽象画とかが生まれてきて、私のような一般大衆の心に響くものとはかけ離れていっているのかもしれません。
先述の「4分33秒」などは、「音楽はなにかを鳴らさなければいけない」という音楽の大前提であるルールを破ってみた、アーティストの挑戦であり探求心であるのでしょう。
抽象画においては、「見えたまま描かなくてはいけない」というルールを破ったものだし、もっというと、便器を横向きに置いてサインをしただけの作品や、キャンベルスープを並べただけの作品も、「自分でデザインしなければならない」「自分で製作しなければならない」といったルールを破ってみた挑戦であるといえそうです。
◆「芸術は難しい」の正体
ということで、芸術に詳しくない私がこれ以上語ることはできないので、問いに戻るとして、「芸術は難しい」と感じるのは、作家サイドが各分野で探求心や挑戦を繰り返した結果として、生み出された作品を、一般的な価値観を持って観ることになる鑑賞者が理解できないのは仕方がないということになります。
一般的な価値観を持つ私のような鑑賞者は、「高い評価」とされているその作品を自分が理解できないことを恥じるような気持ちになってしまう、というような構図かと思います。
◆まだ続きます。
なにか答えに向かっているのか、拡散しているだけなのかよくわからないですが、とにかく話は広がります。
時間が来ましたので、続きは日を改めて。
では、また!