<「火の鳥」の立ち位置って?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで
「火の鳥 異形編」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
昨日書いた内容としては、以下のようなものです。
・結局、左近介の罪は赦されたのか?
・「無限ループ」に関しての考察(仏教、永劫回帰)
◆可平という存在
主人公の左近介が寺に閉じ込められたとき、お供の「可平」も一緒に閉じ込められてしまいます。
「30年の幽閉を共にした、この可平という存在はどういう意味を持つのだろう?」
という問いがありました。
「左近介と対比して、とても人間らしい存在」という意見がありました。
治療に訪れる妖怪に対し恐怖で動けなくなったり、30年後に脱出する際に左近介に「どうして行かないのか」と詰め寄ったり。
確かに可平という人間らしい存在が、左近介の変化をうまく際立たせているように思えます。
◆八百比丘尼を殺した罪はそんなに重いのか?
「八百比丘尼を殺して、執行猶予30年のち結局死刑は重すぎないか?」
という意見がありました。
確かに、、。
「理由はどうあれ、目の前の人を殺すことは絶対にいけないという著者のメッセージ」
という意見がありました。
確かに、「妖怪化人間かで区別してはならない」というのもありましたし、強いメッセージ性のある漫画だという印象を受けます。
また、父親や、そのほかの兵士を助けないシーンは「戦争はどうあってもいけない」というメッセージを感じます。
そのあたりの話題も出てきました。
◆結局、「火の鳥」の存在とは?
自分は火の鳥を読むのは今回が初めてでした。これ以外のエピソードは読んでいません。
他メンバーにも同様の意見があり、夢の中に登場して主人公を救ったのかどうかわからないこの「火の鳥」という存在はシリーズの中でどのような位置づけなの?という疑問がありました。
今後、他のエピソードも読んでみたいのですが、「きっかけは与えるけれど、最後は自分の問題だよ」というどこか突き放したような存在であるような気がしました。
ネガティブにいうと、「笑うせぇるすまん」や「銭天堂」のような、、。
◆終わりです。
とても短い漫画ですので、2時間持つか、と思いましたが、「時間が足りないぐらい」というメンバーもいたように、とても内容の濃い哲学カフェになったと思います。
このほかにも、紹介しきれていない多くのトピックが出てきました。
「左近介が結局赦されたのか?」に関しての問いは、まだ続いたままになっていますね。
個人的には、「左近介が『赦されるかどうか』という他人目線で行動を考えるのをやめた」ということなのかな、と考えるに至っています。
以上で、今回の哲学カフェのレポートを終わりにしたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!