<『謎』と『普通』を分けるのは?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで
「謎ルール・謎マナー」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
昨日書いた内容としては、以下のようなものです。
・ビジネス、宴会、部活動
・上下関係がある場所に多発
・ルールができた時点では合理性があった
・時代が変わって合理性がなくなったもの
・自分と同じ苦労を後輩にも味わわせたい問題
・ローカルルールだったものが、他の場所に行って謎ルール化
◆「謎ルール」を「謎」たらしめるものは?
ここで、少し原点に立ち返り、「謎ルール」の「謎」についての問いが起こります。
謎ルールを「謎」と認定するのは誰なのか?どういう理由なのか?ということですね。
「謎」というのは、わからない、理解を超える、という意味があります。
だから「謎」であるということを判断するのは、「そのルールを理解できない側の人」ということになります。
「ケンミンショー」における「謎ルール」は、ローカルな文化・習慣を珍しがり嘲笑するようなどこか嫌味なところを含んでいますが、
いっぽうで、ハラスメント的な昭和マナーを振りかざす、鬼姑や会社の古いおじさんの言動に対し眉をひそめる現代っ子という構図で見ると、「謎ルール」というのは同情を誘うものでもあります。
「宗教におけるルール」というのも話題に上がりましたが、考えてみると宗教というのは謎ルールのオンパレードといっても過言ではありません。
例えば神道に全く興味のない人にとって、神社でのルール・マナーはそのすべてが「謎ルール」であって、合理性を感じることがないでしょう。
逆に少しでも興味を持つ人にとっては、そのほとんどが「謎ルールなんてとんでもない」ということになりますから。
さらにいうと、「宇宙からの波動」を研究し、全身白装束に身を固めて、集団で隠遁生活をする、なんていう宗教に対しては、ほとんどの人が「怪しい」・「謎」と呼ぶのに対し、神社仏閣に対して「謎」とあまり呼ばないのは、どういうことでしょう。
まず、これまで考えてきたように「謎」は、とらえる人によって「謎」と思えたり、そう思えなかったりするということ。
そして、それを「謎」認定する人の絶対量ということになるでしょうか。
「謎」だと言う人数が少ないほど、それは「普通」ということになってきます。
◆謎ルールと「マウンティング」
「謎ルールを教える人はすごく得意そうにする」
という意見がありました。
あぁ、そうだなと思いました。
ビジネスマナー、宴会マナー、テーブルマナーというのは、知らないと自信がなくオドオドしてしまうことがあり、逆に知っている人は知らない人に教えたくなるものです。「知識マウント」といったメンバーもいましたが、ルールやマナーを教えるというのは自尊心を満たすのにちょうどいい案件のようです。
しかしそれが「謎ルール」なるとちょっとやっかいなことになりますね。
一昔前に「洋食のライスはフォークの背中に乗せて食べる」と、おじさんに教えられたことがありましたが、知識マウントを背景に間違ったルールまでも広めてしまうものが謎ルールの側面なのではないでしょうか。
ちょっと話は脱線気味になりますが、演劇舞台などによくある「お約束」なんてのもマウントにつながりかねないなぁ、って思いました。
知らない人にとっては、非常に居心地が悪いものなので個人的にはあまりお約束を多用する演劇・テレビは好きじゃない、、。
◆終わりです。
今回も、誰しもなじみのあるテーマであったことから、次々と意見が継がれ、盛り上がり楽しい回となりました。
個人的な感想としては、身の回りのほとんどのルールは時代・地域に裏付けられているだけの脆いものであり、その時代や場所が変われば、自分たちが当たり前・普通と思ってやっていることも「謎ルール」化してしまうんじゃないかなぁと感じたということです。
以上で、今回の哲学カフェのレポートを終わらせていただきたいと思います。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
では、また!