ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第39回「反省」①

<反省は「求める」もの?>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。

今回は第39回となります。

  

前回の第38回「プライド」の模様はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆「哲学カフェ」とは?

哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。

「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。

私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。

当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています(今のところ)。

 

◆今回も「Zoom」を使いました

今回も前回同様、「Zoom」を使用。

「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリです。

 

主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。

  

◆この日のテーマは「反省」

この日の参加者はのべ5名。時間は2時間です。

 

オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。

しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。

(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)

 

今回は、ひじき部長がお休みのため私が進行兼書記役で進めていきました。

 

この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた

 「反省」

です。

 

反省といって真っ先に思い浮かぶのが、芸能人の謝罪会見。頭を下げる時間が何秒だったと伝えるワイドショー。

アイツは反省していない。反省を求める。

そもそも反省って他人から求められるものなのでしょうか?

 

では、実際出てきた意見と感想を簡単に書いていきたいと思います。

 

◆反省は「求めるもの?」

「反省」と「謝罪」は、どう違う?

まずはそんな問いから哲学カフェはスタートします。

冒頭述べた芸能人の謝罪会見。

また、不祥事を起こした企業の謝罪会見。

私たちはそのテレビを見て、見た目や態度で「反省している」「反省していない」などと判断してしまいます。

それはすなわち、謝罪において「反省しているような態度をアピール」していることが重要になるわけで、本人が「反省している」とは違うはずです。

 

ここで、そもそも「反省」とは何か?という問いに戻ってくるわけです。

WEBで検索すると、

「何らかの有用な知見を期待して、自分のしてきた行動や発言に関して振り返り、評価し、良くなかったことを意識して改めようとする」

という定義が出てきます。

 

本来の意味は内省的なものであるはずの「反省」がどうして「アピール」に変化してしまっているのでしょうか?

 

「反省を求める」とはどういうことでしょうか?そもそも反省って、「求めるもの」なのでしょうか?

このような問いが当然のように出てきます。

 

ここから、

「反省の態度を取らせて、被害者側が留飲を下げるため」

「被害者側が優位に立つようにさせる」

といった、求める「反省」についての意見が交わされていきました。

 

ちょっと話は広がりますが、芸能人や政治家の謝罪に対して「反省がない」と批判したがる背景として

「『あなたはこのような立場なんだから、こう振る舞うべき』という固定観念を押し付けている」という興味深い意見もありました。

 

◆外向きの「反省」

反省文で評価する「反省」って?

こんな問いがありました。

反省文というのは、私も子どもの時に書いたような気がします。

 

反省文というものは、自分の行動を振り返り、「本当に悪いことをしたなぁ」と悔いていなくても、テンプレートを覚えることで上手くなっていきます。

「反省文を多く書く子ほど、反省する(ように見せる)ことがうまくなるという皮肉な構図になるのでは?」という意見もありました。

 

この仕組みこそ、反省=外向きの態度と勘違いさせる原因の一つになっているような気がします。

 

刑務所や少年院で、受刑態度が良いと仮出所が早くなるから「反省しているように振る舞う」というのは、やっぱり本来の反省しているのとは別物だよね、という意見も。

 

そういえば、ふだんの仕事でも時々目にする「お詫び文書」や「顛末書」なんてのも、もう気持ちのいいぐらいテンプレートだなぁ、って思いだしたりしました。

 

◆「次はバレないようにしよう」は反省?

これは面白い問いです。

起こしてしまったことを振り返り、次は捕まらないように、あるいは、次はバレないようにしよう、と考えるのは「反省」とは違うのでしょうか??

 

哲学カフェはまだまだ続きますが、いったん時間となりましたので続きは日を改めて書いていきたいと思います、

 

では、また! 

 

f:id:chikuwamonaka:20211019053433p:plain