主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

「差別はたいてい悪意のない人がする」キム・ジヘ

<『普通』を疑い続ける姿勢>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

今日は、この本。

 

内容<amazonより>

性差別、LGBT、外国人、障害者…あらゆる差別は、マジョリティからは「見えない」。私たち自身の中にある思考のバイアスと、日常の中にありふれた排除の芽に気づき、真の多様性と平等を考えるための思索的エッセイ。

[目次]
プロローグ――差別が見えますか

I 善良な差別主義者の誕生
1章 立ち位置が変われば風景も変わる
2章 私たちが立つ場所はひとつではない
3章 鳥には鳥かごが見えない


II 差別はいかにして不可視化されるのか
4章 笑って済ませるべきではない理由
5章 公正な差別は存在するか
6章 排除される人々
7章 「私の視界に入らないでほしい」

III 差別と向き合う私たちの姿勢
8章 平等は変化への不安の先にある
9章 すべての人のための平等
10章 差別禁止法について

エピローグ
訳者あとがき
解説 韓国における差別禁止の制度化とそのダイナミズム(金美珍)
参考文献

◆この本は

 

ボリューム:★★★☆☆(普通)

読みやすさ:★★★☆☆(難しくはないです)

気付き学び:★★★★★(自分も差別をしている側だ、と気付きます)

役立ち度 :★★★★★(自分はどうすべきか、よく考えます)

 

紹介されているエピソードを読むにつれ、「自分も、差別をしている側に回っている」と気付かされます。

それはとても苦しいけれど、他山の石とすることで、自分を変えていかねばならないと戒める、貴重な読書経験になりました。

 

◆内容紹介・感想

たくさんの印象的なエピソードが記されていますが、その中でも、

印象に残った言葉を引用し、感想を書いていきたいと思います。

 

他人を侮辱する笑いは、必ず揶揄される対象である「だれか」を踏みにじっている。

誰かをいじって笑いをとることは、ついやってしまうことの代表格です。

ここでは黒人を差別したコメディの例が紹介されていますが、自分たちの周りにそれがないかというと、そんなこともないということに気付きます。

子供の時は先生のマネをして、テレビのコメディアンのマネをして。

それが、誰かの不器用さや身体的特徴を笑うものであったかもしれません。

それは、「みんなやっていたことだから」とか、「時代だったから仕方がない」と開き直っても仕方がありません。

過去は過去なんですが、しっかり反省し悔いることで、今日以降はそうしないように気を付けられるかどうかですね。

 

・「逆差別だ」と理不尽を感じた時こそ、認識していなかった特権に気付くチャンス。

これは、なるほど名言です。

例えば企業が女性の管理職比率を高めようとすると、男性は「女性ばっかりひいきしやがって」という気持ちを持つことになります。

ここでの男性の場合、現在の女性の管理職比率が低いことに対して「普通の状態である」と考えていることに問題があります。

まぁ、下駄をはいている自分に気付いていたとしても、その下駄をはいた自分の立場が脅かされることに単に嫉妬している場合もありますが。

「平等なのかどうか」を考える際に「自分」という要素が入ってくるからややこしいのでもある、、。

富や権力で強い立場に立っている人ほど、現状は自由競争の結果であり、それをわざわざ是正しようとすることは平等ではないという考えに立ってしまいがち、ということにも気づきます。

不均衡な今の状態を「普通」「正しい」と思ってしまっていること。

それは過去、女性に参政権が無いことが当たり前で、もっというと奴隷を所持していたことが「普通」だった時代があったことを考えると、いまの女性管理職の比率が1割にも満たないということは、それと同じではないといえるでしょうか。

 

・ほとんどの市民は、差別は道徳的に許されないと思っている。

私も、差別はいけないことだといつも思っています。

でもこれを読んで、少し省みるだけで、いや差別をしているんだということにいやおうなく気づかされました。

マジョリティの側に立っていると、差別に気付きにくいというのは、何度言われても言い過ぎではないと思います。

今ある「普通」を疑わない気持ちは、「そこに差別はない」と思う気持ちでもあります。

「私は差別はしない」と言っている人のほうが差別をしがちである、ということは学んで知りましたが、普通を疑い、自分を疑う姿勢を持ち続けることが重要であることに気付きます。

 

たとえ、「自分はマイノリティだから」と感じている場合であっても、別の枠組みにおいて立場を変え、マイノリティの誰かを差別していることもよくあるということにも気づきます。

「親ガチャ」という言葉が最近聞かれます。これも「今自分が置かれている場所は本当に自分が頑張ったからなのだろうか」と自問するきっかけになります。

親ガチャ問題は格差の下の人にではなく、上の人にこそ考えなければいけない言葉であるように思います。

エアコンのついた家に住んで、三食困らず食べて、道を歩いていても殺されず、愚痴を言いながら学校や会社に行って。そんな普通の生活ができていることが「親ガチャ」だと考える人がいるかどうか、ということです。

 

感想は以上になります!

 

では、また!