<役に立つだけでは、なんか寂しい>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は3日目になりますが、引き続き
「役に立つ」
について書いていきたいと思います。
もう少しだけ、お付き合いください。
昨日までの内容はこちら。
昨日までに書いた内容としては、以下のようなものです。
・役に立つの「役」は「役割」
・役に立つとは、性能が優れているというわけではなく、役に立たれる側が望むことに適っているかどうか
・役に立っているのは、その人やモノではなくて、その人や物が持っている「機能」である
・役に立ちたいと思うのは、承認欲求や所属の欲求
・役に立つとは、常に「何に対してか」を抜きには語れない
・役に立つという価値観が強まったのは、効率化し余裕のない社会の表れ
◆役に立つ人を称賛することと、役に立たない人を侮蔑することは同じではない
こんな意見がありました。
社会貢献している人は、手放しで称賛できます。
でも、その逆、無職だったりする人を侮蔑するということはあまりないように思います。自分には直接関係がないということも大きいです。
それでも、何か侮蔑することがあるとすれば、陰口をたたくようなシーンが思い浮かびます。
でも、陰口をたたいたからといって、自分にメリットがあるわけでもありません。
そこには、他人を落として快感を得る、という何だか別の感情があらわれているのではないか、そしてそれは、集団内での自分の地位を保つための本能的なものではないか、というようなことが話し合われました。
◆やっぱり、役に立たなきゃいけないのか?
「高齢者の自殺の原因の多くが、『家族に迷惑をかけたくない』というもの」
といった意見がありました。
高齢者が自殺に至るまでには、過去の動けていた自分との対比や、回復の見えない事への絶望や、それによる精神的ダメージがいろいろ重なってのことだろうとは思いますが、実の家族に対して、自分は役に立たないから、消えてしまいたいっていうのはどうも寂しいものだなぁという声も出てきました。
先ほど「みんな余裕がない」という言葉が出てきましたが、ここでもそのワードがよみがえってきます。
そういうふうに考えていくと、「役に立つ」という言葉に縛られているのは当の自分であって、「役に立つ」以外の幸福のかたちをもう少し考えていったほうがいいんじゃないかと思ったりもしました。
ただそこにいること、ただ会うこと、ただ話すことで満たされる。その内容ではなく存在自体を大切にすること、特に年齢が上がっていくにつれて、そんな考えにシフトしていくべきなんじゃないか、と考えたりしました。
◆終わりです。
今回の哲学カフェは非常に中身の濃いものになったように思いました。
前半、「役に立つ」というのは、どういうことかについてじっくり話し合えたあと、後半にてその前提を踏まえたうえで、「役に立つ」という価値観が自分や自分の人生にどう関わっていくんだろうか、というところまで発展できたんじゃないか、と思います。
楽しませてもらいました。ありがとうございました。
では、また!