ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第48回「祈り」①

<よくわからない部分に対して「祈る」>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。

社会情勢を踏まえ、2020年より主にオンラインの場に移し、「オンライン哲学カフェ」として細々と楽しんでおります。(※今のところ、クローズドでの開催です)

今回は、第48回開催になります。

  

前回の哲学カフェ「視野を広げる」の模様はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆「哲学カフェ」とは?

哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。

「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。

私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。

そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。

当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。

 

◆今回も「Zoom」を使いました

今回も前回同様、「Zoom」を使用。

「Zoom」とはすっかりおなじみとなっていますが、とても使いやすいオンライン会議アプリです。

主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。

  

◆この日のテーマは「祈り」

この日の参加者はのべ8名。時間は2時間です。

 

オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。

しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。

(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)

 

今回は、いつも通りひじき氏が進行役になり、私はというと、いつものように書記役で進めていきました。

 

この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた

 「祈り」

です。

 

ご先祖様の霊前で祈る。神さまに祈る。誰かの合格を祈る。ほとんどの人は、信仰に関わらず、普段から何かしら「祈る」という行為をしているのではないでしょうか。

でも、いったい何に対して祈っているのか、祈ったところで何が起こるのか、意外とはっきりわかっていないままその行為をおこなっているのではないでしょうか。

どことなくあいまいな部分も多い「祈る」という行為について、今回は哲学してみたいと思います。

 

では、実際出てきた意見と感想を簡単に書いていきたいと思います。

 

◆「祈り」には、どんなものがあるのか

冒頭にも書きましたが「祈り」にはさまざまな形態がありますので、具体的にどんなものがあるのか、挙げていくところから哲学カフェは始まります。

・先祖のお墓・仏壇の前で手を合わせる

・キリスト教の「主の祈り」を暗唱する

・災害の犠牲者に対する黙とう

・恋愛成就など、○○にご利益がある神社へ参拝

・野球観戦しながら、「なんとか抑えて!」と手を合わせる

ひとことで「祈る」といっても、実に様々なシーンで私たちは祈っているものですね。目的も様々で、切実なものから、カジュアルなものまで多岐にわたっています。

 

◆「祈り」は、何のために行うのか

次は、祈る「目的」について考えていきます。

・霊的な存在に、見守ってもらう⇒家内安全・健康など

・すでにいない死者に思いをめぐらす

・自分や他人が試験に合格してほしい

・手術がうまくいってほしい

・ひいきチームが試合に勝ってほしい

こちらもたくさん出てきましたが、大きくいくつかに分類できそうです。

①特定の他人や自分に対するお願い事

②広い意味での平和を願う

③自分の気持ちを安らかに持つ

 

さらに、それらの背景にある究極的なものはなんでしょうか?

そこから出てきたのが、「生き延びること」。

「祈り」の歴史的背景を考えてみたのですが、五穀豊穣や疫病退散など生命に関わるできごとを自分たちにとって良い状態に保つことをめざすものです。

 

そして、「よくわからない世界を受け入れること」。

いくら考えても答えが出ない、自分の存在。死に対する恐怖、現在の理不尽な境遇に対し、「神の思し召しだから」というふうに理解しようとすること、結果として気持ちを落ち着かせることにつながります。

 

◆「祈り」は、何に対して行うのか

祈ることの目的を検討しましたが、次は「何に対して祈っているのか」ということがあります。

「『家族の手術が上手くいきますように』という祈りは、神さまに言わないで医者に言うのが筋ではないの?」という問いが上がったところから、話が発展していきました。

確かに、手術を行うのは医者なので、医者がうまくやるかどうか、それが問題なんですよね。

 

野球の例ではどうでしょうか。「この回抑えてくれ!」と祈るのは、ピッチャーに対して祈っています。でも、祈っているのはピッチャー本人というより、「勝負を司る何か」に対して、祈っているような気がします。

 

これを、「ランダムなもの」という表現してみます。ピッチャーは狙ったところへ全力で投げるだけなんですが、指のかかりとか、バッター側の当たり所、打球の落ちるところ、その他さまざまな要因で結果が変わってきます。

そうなると、ピッチャーにとっては、あずかり知るところではないところが多い、そんな「ランダムなもの」に対し、自分が望む結果になるように働いてほしい、と願う行為と言えないでしょうか。

その「ランダムなもの」を司っているのは、神さまなのか自然現象なのかは置いておいて。

 

手術においても、どんなに医者ががんばっても確率的に上手くいかないことがあります。それを理解していて、神社にお願いするのではないか、と考えるのです。

 

◆まだまだ続きます。

野球のなかでの祈りについては、実はかなりこの後も引き続き盛り上がり、またさらに新しい問いが出てきて、哲学カフェはまだまだ続くのですが、

長くなってきましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。

 

では、また! 

 

 

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