<祈りは結果とは因果関係がない>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで
「祈り」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
昨日書いた内容としては、以下のようなものです。
・祈りには、切実なものから、カジュアルなものまで様々な形態がある
・色んな形態はあるが、私たちのほとんどが何かしら日常的に祈っている
・願いごとをかなえるために祈る
・この世にいない人に思いをはせるために祈る
・気持ちを落ち着けるために祈る
・祈りの原始的なものは、生き延びることへの願い
・「よくわからないこと」を受け入れるために祈る
・人間のコントロールできる範囲を超えた部分に対して、上手く運ぶように祈る
◆野球は何回から「祈る」か?「応援」との違いは?
野球観戦における「祈る」のシーンは印象的ですが、
あなたは、何回ぐらいから祈る?
という面白い問いがありました。
1回表から祈っているファンはあまりいないでしょう。選手のご家族は別として。
自分の印象としては、「ピンチの時」「この打席に勝ち負けがかかっている時」に「頼む~」と手を合わせて祈ります。
よこしまですが、フライが打ち上がって、「落としてくれ~」って言ってしまうのは「祈り」のような気がします。
どうやら祈りには、力を発揮してほしいだけでなく、それ以上の力、奇跡のようなものを期待しているところがあるようです。
◆「祈り」と「結果」は無関係
絶体絶命のピンチを前にして、奇跡が起きるように必死で祈る、ということは分かったとして、しかし、テレビの前で祈ろうが祈らまいが、自分が祈ることと起こる結果については、基本的には関係がありません。
お百度参りをしたとしても、親の手術の成功確率が上がるわけではありませんし、ゆかりの神社に100回お参りしてもひいき球団の勝率が変化するわけでもありません。
直接的な因果関係はありませんし、祈っているほうでもその事実については気付いているはずです。
なのに、何故私たちは祈ることをやめないのでしょうか?
そんな問いが起こってきます。
「それでも『何かしたよ』感がほしい」という意見がありましたが、自分の気持ちを落ち着けるためといえるでしょうか。お祈りぐらいしかできなくて、やっておかないとどこか後ろめたさがあるのでしょうか。
「責任をその人だけにしたくない」という面白い意見もありました。仮にうまくいかなかった時でも、「勝負は時の運」などというように、人智を超えたものの作用であるというと、どこか慰められるものです。
◆「お祈りメール」を考える
「就職活動における『お祈りメール』のお祈りは無責任」
という面白い切り口がありました。
これはネガティブな感情ではなく、結果を期待していないニュアンスがある意味ありがたい、というのです。
ここにおける「お祈り」は「健闘を祈る」のように、結果を出せというプレッシャーとは違ったところを意味しますね。
◆終わりです。
「祈る」という言葉は幅広い意味で使われていて、今日も多くの切り口が出てきて、2時間では足りないぐらい、盛り上がったテーマだったと思います。
それは現代では「生き延びる」という切実なものというより、もっとカジュアルなものであるように思います。
色々あったとしても、それなりに平和で満たされた世界に生きていると、神社で祈ることが特にないといったことがあるかもしれません。
神社はお願いをするところではなく、お礼をするものだという説もありますが、それにしても、人智を超えたものに対する働きかけであることに変わりがないですね。
これは、人間の飽くなき「欲望」なのでしょうか?それとも逆に「諦念」なのでしょうか。
また、思い出に残る哲学カフェとなりました。
では、また!