<無駄を排除するとどうなる?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで
「無駄」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
昨日書いた内容としては、以下のようなものです。
・「無駄」に対するイメージ
・「無駄」と「役に立たない」の関係
・「無駄」は何にとってかによって変わる
◆「無駄」と時制
「無駄かどうかは、それをやる前には判断できない」
という意見があり、無駄と時間についての関係の話になりました。
「無駄だった」と評価するのは、相応しい結果が出なかったとき、つまりやり終えた後です。
しかし、やる前に「無駄だからやめておけ」ということもあります。
それが未来に向かって無駄になるのかどうか、それは誰にもわからないはずなのに、過去の経験をもとに確率論的に語っているようですね。
災害時、普段「無駄」とされているアナログなグッズが役に立つこともあるように、いつか役に立つこともありますからね。
しかし、それこそが「無駄」と「無駄じゃない」の境界線であり、ここにギャップが生じやすいのも事実です。
「いつか必要だから」と、モノを溜めこんだり、結果を生まないことをやり続けたりするものです。
◆無駄を排除すると?
自分たちは無駄を極限まで排除するとどうなるのか?という話題も出ました。
ただこれは前述のように、「何に対しての『無駄』とするか」という前提によって変化するもので、そこが決まらないとメンバー間で食い違ってくるものです。
「人間が健康に生きていく」のか、「長生きする」のか、あるいは「幸福に過ごす」となると、また違ってきます。
健康に長生きするために無駄を排除していけば、嗜好品・ぜいたく品のたぐいはまず不要になるでしょうね。こってりラーメンなんかもってのほかですね。
突き詰めると、食事は食べるのではなく「完全栄養」を直接胃に流し込むほうが効率的かもしれません。
結婚して子供を産み育てるっていうのも、「無駄」になるかもしれません。種を継続させるだけなら、集団での子育てのほうが効率的かもしれません。
そうやって考えていくと、「無駄」というのは、「人生の面白み」につながる重要な要素かもしれない、という考えにも至ります。
◆人生は無駄?
最後に、「人生は無駄なのか?」という問いがありました。
自分の営みが、社会の維持発展に少しは役に立っていると考えると、人生は無駄ではありません。
しかし実存主義的に考えると、意味なんてものはありません。なぜだかよくわからないけれど、いつの間にか生まれてきて、そのうち死んでいくだけです。
「いずれ太陽が巨大化して地球が飲み込まれる」ことを考えても、人間の営みは「無駄」だということも言えるかもしれません。
ただここでは、「無駄」というより、「無意味」ということのほうがしっくりくるかもしれませんね。
◆終わりです。
今回は人数が少なかったこともあり、思考実験的に考えたり、割と熟考が多く静かな回となりました。こういうのも良いですね。
以上で今回の哲学カフェのレポートを終わります。
ありがとうございました。
では、また!