<「可能性」という言葉が持つ魔法>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
今日は先日の続きで
「可能性」
について書いていきたいと思います。
先日の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・「可能性」はポジティブに使われるのか
・「可能性」は確率
・「無限の可能性」は「選択肢」とも言い換えられる
◆可能性と期待値
「可能性は期待値と言い換えるとどうだろうか。」
という意見がありました。
ちょっと数学的なアプローチでしたが、これがまた面白い方向に進んでいきました。
期待値という、未来に得られるリターンに確率を掛けて考えるやり方を教えてくれました。
例えば3分の1の確率で200円が当たり、残りの2つはハズレになる、単価100円のクジの期待値は、67円になり、何もやらないより悪いということになります。
生涯で50億稼ぐプロ野球選手は500人に1人である場合と、2億稼ぐ会社員が10人に1人である場合、期待値は会社員のほうが高くなります。
ここで、「可能性」という言葉を使うのと、「期待値」のように数字で示すのとはずいぶん印象が違うな、という意見が出てきました。
高校球児が「甲子園に出場できる可能性がある限り、がんばろう!」というのと「統計的にわが校が甲子園に行ける確率は0.05%だが、がんばろう!」というのでは違います。
◆5年生存率○○%
流れで、「5年生存率○○%と言われた場合」という問いが出てきました。
「『5年生存率5%』と言われた場合、その5%を過大評価するだろう」という意見がありました。
生き延びる可能性が1%でもある限り治療を続けるか、つらい治療をやめてのこりの生命を幸福に過ごす方法を選択するか、そんな話はよく耳にしますが、それが自分以外の場合と自分に対してでも随分印象が違ってきます。
単純に期待値では決まるものでもない気がします。
◆終わりです。「無限の可能性」の先にあるもの
ここからは感想です。「可能性はポジティブなのか」から始まった哲学カフェでしたが、このありきたりな言葉と少し距離を置いてみて、最後に感じたのは、可能性は確率であるが、選択肢でもあるということ、そして可能性という言葉が魔法のように使われる場合があるということでした。
そして子どもに言われる「無限の可能性(=選択肢)」は、幸福を追求するためのチャレンジを促す言葉でそれ自体は肯定的にとらえるものですが、そこに執着すると、年を取って実際に選択肢がわずかとなった場合みじめさばかりを覚えてしまうのでは、とも思いました。
さらに、可能性は選択肢であるということをもっと広く考えてみると、可能性というものは、人間にとっては行動する理由そのものではないか、という印象も持ちました。
例えば歯磨きをしたり緑の野菜を食べたりするのは健康を害する可能性を前提とした行動であります。
というわけで、最後は拡散してしまいましたが、これも哲学カフェの面白さのひとつですね。(なんだか、毎回『これも哲学カフェの面白いところ』と言っているような気がしますが、、)
以上で、哲学カフェ「可能性」についてのレポートを終わりたいと思います!
では、また!