<新しいものを求めて、選択肢が増えていく>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「飽きる」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・「飽きる」は刺激の減少
・先が読めない、当たりが分からないものは飽きない
・「飽きる」には対象への理解度・知識が関係する
◆好きな人に対して「飽きる」とは?
「釣った魚にエサはやらない」などという卑近な例がありますが、
「『恋人に飽きる』『配偶者に飽きる』というのはそれと同じこと?」
という問いがありました。
「『飽きる』とは言っていても、それは『好きじゃなくなった』を言い換えているだけ」
という意見や、
「子どもやペットに対して『飽きる』はあまりないのに、男女の仲には『飽きる』があるのは、エロスが関係している」
という意見も。
確かに性愛は刺激的で、子供や動物への愛は逆に刺激的というより親密さというものを感じます。
夫婦の愛でいうと、最初は刺激的だったものが、親密さにだんだん置き換わっていくように思うので、もし「飽きた」を感じるのであれば、それは刺激のみを求めているのでは、ということになりそうです。
◆食べ物に「飽きる」とは?⇒「飽きる」のメリット
「同じものばかりを食べていても『飽きない』人の心理は?」という問いがありました。
これも恋人の話と同じで、「ただ好きだから」という理由で飽きないというのはあると思いますが、やっぱり朝昼晩、毎日と続くとさすがに飽きるはず。
この例からは「ホメオスタシス」(同じものばかり食べていると、別のものが食べたくなるという本能)が思い浮かびます。
そこには、栄養が偏ると体に良くない、ということに体が本能的に反応している結果ですが、これを、今までの例に当てはめることはできないでしょうか?
「人間に備わっている『飽きる』ことには、何か意味・メリットがあるのでは?」
という問いが生まれてきました。
逆に、「飽きないとどうなるか」を考えてみます。そうすると、好きな物だけずっと同じものを食べ、ずっと特定の人だけと一生付き合い、同じ本を読み続け、同じ服を着て、同じ場所に住み続ける、、、。
これは、なかなか今の人生からは想像がつきません。というか生き方を根本から覆されるような状態になります。
「『飽きる』というのは生存戦略である」という意見が出てきました。
飽きることによって、別なものに手を出していく、経験を積むことで、元のもの(食べ物や住処・付き合う人)がダメになったときに、別の選択肢があって生き延びられる、という感じですね。
「新しいものを求める」ことが生存上必要である、という考えはなるほどと思いました。
「『飽きる』ことができるのは贅沢だ」という意見もありました。
確かに、飽きて別のことができるのは選択肢があるという証拠であり、選択肢が無いと飽きても投げ出すことができません。
「刺激があるからこそ飽きる、飽きるのはそれが楽しい証拠」というのもありました。
◆終わりです。
哲学カフェは時間が来たら、話がまとまっていなくても、終わります。
今回の「飽きる」は、身近であるために色んな具体的エピソードが出てきて、そこからまた抽象論がいったんまとまって、また具体論に広がっていく、というような哲学カフェ的に一番盛り上がるパターンになっていきました。
「飽きる」とは刺激の減少だというのは以前から思ってはいましたが、知識や生存戦略まで出てきて、なかなか奥が深いものでした。楽しかったです。
以上で、今回の哲学カフェの振り返りを終わりたいと思います。
では、また!