みんなの日常哲学カフェ ~哲学カフェとか読書とか

哲学カフェの記録を中心に、読書記事も書いています

旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

「ほんのちょっと当事者」 青山ゆみ子①

<ちょっとしているからこそ、想像されにくい世界>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

今日は、この本。

 

内容<amazonより>

ローン地獄、児童虐待、性暴力、障害者差別、
看取り、親との葛藤…「大文字の困りごと」を
「自分事」として考えてみた。
「ここまで曝すか! 」と連載時より大反響の明るい(?)社会派エッセイ

わたしたちが「生きる」ということは、「なにかの当事者となる」ことなのではないだろうか。…みんなが隣にいる誰かへの想像力をもつようになれば、まわりまわって思いもかけない方向から、誰かがわたしの小さな困りごとを助けてくれる気がする。そういうのってなんだか素敵で、とてもふくよかな社会に思えるのだ。――「まえがき」より。

◆この本は

ボリューム:★★★☆☆(そこそこあります)

読みやすさ:★★★★☆(重い内容もあります)

気付き学び:★★★★★(気付くところは多い)

日々に役立つ:★★★★☆(日々の言動を見つめ直せる)

 

発達障害のグレーゾーンや、わかりにくい身体のハンデ、家族の介護、女性の生理、誰にでもあるからこそ、当たり前にすごされてきて、案外と想像されない世界。そんなものがいくらでもあるんじゃないか、と気付かされます。

 

◆内容紹介・感想

この本は、筆者が実際体験した「生きづらさ」について、これを当事者目線で語っていきます。

本書は9つのエピソードに分かれていて、言葉は軽めで読みやすいけれど、内容的には重かったりするので戸惑いますが、読んでいる自分の中でも、自分が被害者としてあてはまるところを見つけられたり、加害者側に回っている部分に気付いたりと、気付き学びの多い一冊でした。

印象の残ったエピソードを3つほどあげていきます。

 

・「聞こえる」と「聞こえない」のあいだ

筆者の高音域の難聴と耳鳴りのエピソードです。これは実際自分もそうなので共感できるところが多かったです。

高音域が聞こえるということが、当たり前の世界で、自分だけはその高音域が聞こえない=存在していない。

だから、その音域が使われた、体温計のアラームや家電操作音が聞こえない。とても地味なことですが時々、不便を感じます。

ここから想像を広げてみると、ちょっとした「生まれつき○○なこと」って、気付かれていない(自分も気づいていない)だけで、無数にあるんじゃないのか、ってことです。

発達障害について。「グレーゾーン」という言葉があったりして最近は理解も広がってきましたが、当事者にとっては「なんで○○できないんだろう?」といわれて、摩擦を生み、随分生きづらいのに、わかってもらえない。

「生まれつき○○」でいうと、例えば身長が低いことで、他人が当たり前に届いている場所が届かないけど、その前提として社会が作られていない、標準身長以上の人には気付かれにくい。

女性の生理だって、男性には圧倒的に想像されない。そんなのもありますよね。

そういった想像されにくい世界を想像する、そんな、ある意味矛盾した課題を突き付けられる。でも、この本を読んで、突き付けられたからこそ、少しでも想像しようとする人が増える。

手に取りやすいタイトルや表紙、読みやすい文章だからこそみんなに手に取ってほしい、そんな筆者の思いが伝わってきます。

 

・あなたの家族が受けたかもしれない性暴力について

このエピソードでは、筆者が経験したセクシャルハラスメントについて記されています。それは部活動のコーチと、整体医によるものでした。

それは子どものころであればあるほど、親や他人に話しづらく、それはセクハラであるかどうかも判断がしづらく、心の傷となって残りやすいものです。

筆者が受けたセクハラに関しても、「ほんのちょっと当事者」どころではない出来事なのに、こういった事例は、他にもいくらでもあるのだろうと容易に想像できます。

そして、セクハラの背景にあるのは、「強い者から弱い者へと行われる」力関係だということ。

セクハラに限らずあらゆるハラスメントに共通するということにもなります。

だからこそ、後輩や部下を持つ立場になったり、年長者になったり、あるいはプロフェッショナルな立場になればなるほど、同時に他人を想像する力を身につけないといけない、と感じました。

 

 

もうちょっと続きを書きたいですが、続きは日を改めて書いていきたいと思います。

 

では、また!