<社会の要請なのか、個人の感覚なのか>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「人はなぜ道徳的にふるまうのか?」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・「道徳」に染まっているということはどういうことか
・なぜ、道徳を疑わなければいけないのか
・道徳は相対的なものか?
◆道徳とルール
道徳には変化するものもあれば、ある程度普遍的なものもあるというふうに考えられます。
ではその普遍的なものとそうでないものの違いはなんでしょうか。
「ルール」や「法律」といった言葉が出てきたので、こちらの側面から考えてみることになりました。
道徳的行動のひとつに「ルールを守る」というものがあります。
そして、これも良くあることですが、そのルールが間違っているものでとしたら?
というケースですね。
粉飾決算の例が出てきましたが、粉飾をしている会社の中のルールは、法律違反になっているので、二つのルールが対立しているということになります。
この場合どちらのルールが道徳的かと考えると、やはり粉飾に加担せず告発するほうが道徳的な気がしますが、それでも、下っ端のサラリーマンだとしてこの会社の給料で家族を養っていてたとえ露見したとしても下っ端は責任を問われないとしたら?などと考えると、どういう選択肢を採るかははっきりしません。
健康食品のCMは法律すれすれのあいまいな表現をうまく使い相変わらず消費者をうまくミスリードさせようと必死ですが、こういう会社で働いている方々も道徳的でないと言い切れるのでしょうか。
上記のような例を検討していくと、道徳的な判断というものはルールや法の外側にあって、明文化されていないところを判断するもの、自らの裁量によるもののように思えます。
◆結局、道徳って何なんだ?
ここまできて、結局道徳って何なんだ?という問いに戻ることになります。
社会によって変化するもの(外側のもの)なのか、自分の中の倫理観(内側のもの)なのか、というところもあいまいになってきました。
でも、最終的に判断するのは自分、ということと、その倫理観は暮らしてきた社会によって刷り込まれる、ということがわかりました。
「道徳とは、平時を維持するための大衆の意思」という意見がありましたが、道徳とは社会にとっての正しい振る舞いであるというふうにはいえそうです。
◆道徳にメリットは必要なのか
最後に、道徳にはメリットをともなうのか(功利的判断なのか)という問いがありました。
人を助けて感謝されたい、模範行動をして褒められたいというのは、確かにあります。
その場で感謝されたりしなくとも、そういう行為を積み重ねることによって、その人は尊敬を集め長期的な利益になるかもしれません。
でも逆にお礼されると嫌なので名乗らないで去っていく、という話も聞きます。
本能的ともいえるように、反射的に動いて助けてしまう、ということもあります。
審美眼という表現がありましたが、やはり功利だけでは表現できない、上手く説明できないですが、ある程度普遍的な道徳も、きっとあるような気がしました。
◆終わりです。
この日はテーマも道徳ということで、深く考えれば考えるほど難しくなってくる、なかなかに頭を使いました。
しかしながら今回も、実例を挙げて考える、ではこのケースの場合は?などと例外のケースが出てくるといったふうに、批判を繰り返すことで考えが深まっていく、そんな感じで進んでいったので、楽しかったです。
最終的に最初の問いに対する答えにたどり着くことができませんでしたが。
ではこのへんで哲学カフェの振り返りを終えたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!