<どこまでが議論で、どこからがケンカ?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「ケンカ」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・ケンカはするもの?なるもの?
・大人のケンカ
・議論がヒートアップするのかケンカ?
・ケンカとは相手との関係性の変化
◆ケンカには双方の「ケンカをしている」認識が必要か?
「片方がケンカをしていると思っていても、もう片方がそう思っていない場合、それはケンカと言えるのか?」という意見がありました。
これは、なんとなくですけど、「関係性の変化」からすれば、片方だけ「ケンカしている」というのは、考えにくいような気がします。
ただ、「あの人は怒っているから口をきいてくれていないんだ」という気がして、それが一方的な勘違いだったというのはあるかもしれませんが。
◆ケンカと議論のボーダーライン
「『これはケンカではなく議論だ』のボーダーラインはどこでしょう?」
という問いもありました。
これもいくつか意見が出ておもしろかったのですが、
・相手を攻撃する言動があるか
・単なる「正しさ」の押し付け合いだけになっているか
・声が大きくなっているか
あたりが、核心をついていそうでした。
◆ケンカに感情は必要か?
「感情の高まりがないケンカはあるのだろうか?」
この問いも、興味深かったです。
「ケンカになってしまう」のは、話しているうちについカッとなってしまい相手を傷つける発言をしてしまう、ようなこと。
だとすると、ケンカに感情は必要な要素だといえそうです。
外交問題のように、丁寧な言葉や静かな行動であっても、その裏には感情がこもっていそうですしね。
◆なぜ、ケンカをしてしまうのか?
「関係性が一時的にせよ悪化するので損をすることが多いはずなのに、どうしてわざわざケンカになってしまうのでしょうか。」
という問いが出てくるのは当然の流れと言えるでしょう。
「冷静に話がこれ以上できなかった状況」
「ケンカをしてでも守らなければならなかったこと」
という意見もありました。
自分の持っている「正しさ」だとか、自分の大切にしている「価値観」が傷つけられたと思ったとき、防衛的な反応として相手を責めてしまうのでしょうか。
この辺は自分にとって、宿題となりました。
◆終わりです。
今回はこれ以外にも、
・ケンカが良くないものとされるのはどうしてか?
・子どものケンカをやめさせるのはどうしてか?
・ケンカが終わるときはどういうとき?
など、かなり広い範囲で問いが出てきて、あっという間の2時間だったと思います。
やはり、身近な出来事に関する場合はお互いの経験談が出てきやすいですし、考えも深めやすいのかなと思いました。
以上で、今回のオンライン哲学カフェの振り返りを終わりたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!