<次々と問いが生まれていくテーマ>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで青空哲学カフェ
「休み」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・「休み」と「休日」の違い
・ゴロゴロできるのは何時までか
・後悔や罪悪感とは何なのか
・何かしないとの「何か」とはなんなのか
・なぜ「新しいもの」を求めるのか
・「何か」と「何かでない」の違いは
◆「タイパ」という流行語
休日に「何かしないと」を考えるにあたり、「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉は連想されてきます。
もう最近、この言葉が自分の中でかなりブームになっています。
「タイパ重視」を考えることは、問いの宝庫だと今思っていて、タイパ重視の背景はひとつではなく、ほんといろんな社会的要因が込められているような気がしています。
開始前の雑談にて、「溜まっている推しのビデオを観る」という発言があったのですが、読みたくて溜まっている「積ん読」も似たようなもので、「やりたいのに、出来ていないこと」が結構あるような気がしています。
そして、誰が強制したわけでもないのに、それに対していら立ちすら感じてしまう。
そうなってしまう原因って何なのでしょうか?
「知識欲」なのでしょうか。それとも、「話題についていかなければ」という社会的問題なのでしょうか?
「休日にやりたいことを詰め込んで疲れる」現象は、近年に増加しているのでしょうか?だとするとその要因は何なのでしょうか?
この話題を考えていくと、どんどん問いが積み重なっていくばかりで、自分的にいうと、「美味しいテーマ」ということになります。
そうそう、「2時間映画を観るのはつらいが、30分×4回なら観られる」
「映画館なら観られるが、自宅だと映画を観られない」
というまた別の問いを想起させる意見もありましたね。
◆目的か、無目的か
「目的をもって過ごした日々は充実感、無目的に流された時間は後悔」
という意見がありました。
流される、というと、布団で朝、ゴロゴロしてスマホを観ているうちに時間が経ってしまった、という感じを思い浮かべてしまいます(自分の中で後悔の典型)。
ではその「目的」って何なんだ?ということになります。
「やらなくてもいいけど、やろうと決めてやること」
という意見がありましたが、これはまさに人生そのものだなぁ、なんて思ったりしました。
「時間を無駄に過ごす」の「無駄」ってどういうこと?という問いにもつながります。
◆終わりです。
枕部分の雑談を含めますが2時間が経過したところで、青空哲学カフェは中締めとなりました。
最寄りの駅に移動する途中、離れたところから見る、青空と大阪城といちょう、きれいでした。
カフェですこし延長線をして、解散となりました。
「休み」をテーマに4人と少人数でしたが、とても身近なテーマであり、人それぞれ違う価値観があって、消化しきれないほど次々と問いが生まれていって、そのトピック1つ1つで哲学カフェが1回出来るぐらいだったなぁと、改めて思いました。
今回も無事開催できて良かったです。
以上、今回の哲学カフェの振り返りを終わりたいと思います。ありがとうございました。
では、また!