<芸術作品を鑑賞⇒消費へ>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「なぜネットフリックスを倍速再生で観るのか?」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・倍速再生する理由はひとつではなくさまざま
・多くを観たい欲望⇔限られた時間 ⇒タイパ(タイムパフォーマンス)
・つまらないシーンを飛ばす
・お目当てのシーンだけ観たい
・配信による供給過多と、ハードの進化
・人間の処理能力は上がっているのか?
◆作り手の表現を正しく理解できない?
「倍速再生、10秒飛ばしには、作り手の表現を正しく理解できないのでは?」
という意見がありました。
読書に置き換えて、
「ラストを先に観て読んでしまうこともある」という意見もありました。
これは、ネタバレを先に読んでしまうこともある、ということです。
「タイパ」だけの理由でしょうか?
「謎解きの要素を楽しむより、ネタバレを知っておいたほうが(筋がわかっているほうが)ディテールを楽しめるから」という意見も。
「倍速再生で流しておいて、『観るべきシーン』があったら、戻って等倍で観る」というのもありました。
実際に尺を稼ぐための不要なシーンもある、という意見には、ある程度理解できましたが、通常の鑑賞の域を超えている印象がありますね。
◆消耗品としての映像作品
「映像作品を消耗品として扱ってしまっている」という意見がありました。
芸術作品を、鑑賞する⇒消費するという行為に変化している、ということです。
では、消費するということはどういうことでしょうか。
鑑賞するというのは、「その作品と時間を過ごすこと自体を楽しむ」ことを目的にしているような場合と考えられます。
いっぽうで消費するというのは、どこか栄養分を摂取するためだけの食事のような印象を受けます。ただ、知識を得たい、知りたいという欲望を満たしていくだけのような。
そうすると、自分にも思い当たるふしはあるかもしれません。こうやってブログに書き込むための読書とか、話題についていくために、人気の作品を観る行為とか。
それは、鑑賞すること<知っておくことになるような気がします。
◆終わりです。
この日はいろいろな方向に話題が広がって、もう少し深まりを欠いたという印象はありましたが、もっと深めてみたいというテーマが次々に落ちてきたというポジティブな側面もありました。
・なぜ本は飛ばし読みが肯定されて、映像の飛ばし観はダメなのか
・音楽は倍速再生できないのに、映像は倍速再生するのか
・スポーツをリアルタイムで観る場合と、ダイジェストでいい場合
・オンラインにした結果、どんどん時間が短くなっている講義や教材
・1話完結の作品が増えている
・どうして、時間を切り詰めてまで鑑賞しないと(知らないと)いけないのか
こういった流れは一方向に進んでいて、ただの流行のように思えない現象も多分にあります。その背景をもう少し考えることで、見えてくるものがあるような気がして、まだまだ楽しめそうなテーマではありました。
以上で、今回の哲学カフェの振り返りを終わりたいと思います。
では、また!