みんなの日常哲学カフェ ~哲学カフェとか読書とか

哲学カフェの記録を中心に、読書記事も書いています

旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

オンライン哲学カフェ第63回「予定調和」①

<吉本新喜劇とサメ映画についての考察>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

2020年より主にオンラインの場に移し、「オンライン哲学カフェ」として細々と楽しんでおります。(※今のところ、クローズドでの開催です)

今回は、第63回開催になります。

 

前回の第62回開催の記事はこちらになります。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆「哲学カフェ」とは?

哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。

「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。

私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。

そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。

当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。

 

◆「Zoom」を使っています

今回も、「Zoom」を使用。

「Zoom」はすっかりおなじみですがとても使いやすいオンライン会議アプリです。

主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。

  

◆この日のテーマ

この日の参加者は6名(「聞き専」含む)。時間は2時間です。

オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。

しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。

今回は、いつもの通りひじき氏進行役、私ちくわが書記役でやっていきました。

 

この日のテーマは、メンバーの推薦により選ばれた

 「予定調和」

です。

 

水戸黄門、吉本新喜劇、プロレス。筋書き通りのことが起こるって、わかっているのに観てしまう、むしろ好んで観てしまうのはどうしてでしょう?

 

では、実際出てきた意見と感想を簡単に書いていきたいと思います。

 

◆ガチガチの哲学のやつではなく

まず、「予定調和」をネットで調べると、

世界の秩序は、神があらかじめ定めた結果だとする説。ライプニッツが唱えた。

と出てきますが、今回はそれはいったん置いといて、もうひとつの日常的に使われている、「映画やドラマ・演劇などで、筋や結果が予想どおりに進むこと」について考えていきます。

 

具体例として出てきたのは、冒頭にある、吉本新喜劇、プロレス、水戸黄門、そして、「サメ映画」という例も出てきました。

サメ映画というのは、それなりに決まったパターンがあるというのは知りませんでした。というか、「サメ映画」っていうジャンルがあるんだ、、。

 

◆予定調和の色んなパターン

吉本新喜劇は、シナリオ自体は毎回異なりますが、役者、ギャグ、オチがいつも同じです。水戸黄門もだいたい同じですかね。

プロレスはちょっと違って、序盤、中盤、終盤で使う技がだいたい決まっていて、結果だけわからない、そんな感じが多いです。

 

ミステリー小説の例が出てきました。あらかじめ犯人がわかっている「古畑任三郎」パターンだったり、密室モノだったり、「そして誰もいなくなった」形式のように孤島で人数が減っていったり、、。ある程度「型」があるよね、という意見。

 

これは、普段使っている「予定調和」のニュアンスとはちょっと違いますが、ここから考えが展開し、

「ほとんどの物語は程度の差こそあれ、『型』にはめられている」

というふうに推測され、

予定調和はその「型」の強度が高めな現象である、ということが考えられました。

 

◆予定調和の楽しみ方と予定調和の「破れ」

「予定調和の物語の中で、『予想外』が起こるのを楽しみにしている」

という意見がありました。

これは「破れ」と表現できそうですが、共感できるところがあります。

 

プロレス等のスポーツなんかそうですし、ドリフ(古い)でもたまに予想外のアクシデントが起こったりするのがおもしろかったりします。

 

しかし、そういう一面もあるいっぽうで、「吉本新喜劇」に対しては、予想外のアクシデントを期待して観ているわけではなく、その「予定調和」自体を楽しんでいるふうがあります。

 

これは、いったいなぜでしょうか?

新しいものを観たい、知識を得たい、という欲望があるにもかかわらず、知っている展開を望んでいる自分がいる。

 

「あなたはどっちを好みますか?」という問いがありました。

自分は正直に言うと、「どちらも好む」「時と場合による」というふうに答えられます。

 

予定調和(型)に「程度」があるとすると、その「型」がほとんどわからない新しい物語に取り組むか、予定調和の物語に取り組むかは、どこか、それに求めるニーズが違っているような気がしました。

そこにヒントがあるような気がして、前半戦は終了です。

 

長くなってきましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。

 

では、また!