みんなの日常哲学カフェ ~哲学カフェとか読書とか

哲学カフェの記録を中心に、読書記事も書いています

旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

オンライン哲学カフェ第66回「思い込み」①

<宗教も、科学も、「思い込み」だとすると>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

2020年より主にオンラインの場に移し、「オンライン哲学カフェ」として楽しんでおります。(※今のところ、クローズドでの開催です)

今回は、第66回開催になります。

 

前回の第65回開催の記事はこちらになります。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆「哲学カフェ」とは?

哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。

「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。

私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。

そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。

当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。

 

◆「Zoom」を使っています

今回も、「Zoom」を使用。

「Zoom」はすっかりおなじみですがとても使いやすいオンライン会議アプリです。

主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。

  

◆この日のテーマ

この日の参加者は9名(「聞き専」含む)。時間は2時間です。

オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。

しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。

今回は、いつもの通りひじき氏進行役、私ちくわが書記役でやっていきました。

 

この日のテーマは、メンバーの推薦により選ばれた

 「思い込み」

です。

 

錯覚・バイアス、偏見・ステレオタイプ、類似する言葉も色々あって、とても身近なものですが、思い込みって、日常生活でどういう役割を果たしているのでしょうか?改めて考えてみたいです。

 

では、実際出てきた意見と感想を簡単に書いていきたいと思います。

 

◆「思い込み」にはどんなものがあるか

いつものごとく、言葉の持つニュアンスを共有するために、「思い込み」の具体例から出していきます。

・外国産食品は良くない

・規則正しい生活をしないといけない

・東京はどこに行っても都会だ

・○○区はガラが悪い

・人の話を最後まで聞かず決めつける

・「うまくやっといて」という指示のもとでやったが、完成型が違うといわれる

・宗教全般

・足を前に出せば歩ける、手を伸ばせば壁がある

 

具体例が出てくると、改めてさまざまなものがあります。

いわゆる「ステレオタイプ」「偏見」と呼ばれるものから、「勘違い」のようなニュアンスや、あるいは、足を出せば歩けるとか、夜寝れば朝が来るとか、生活の根本である「当たり前」に属するようなこともありますね。

 

「現実だと思っているものは、すべては思い込みである」という考え方は、哲学の話題でもよく出てきますし、映画「マトリックス」のように、誰もが一度は触れたことがあるだろうと思います。

 

◆科学でさえ思い込みの一種

「科学だって宗教だ」という意見がありました。

 

これは「宗教全般は思い込み」という意見から発生したものですが、科学だって「多分そうだろう」という推論の積み重ねであって、「なぜ私たちは存在するのか」というような根本的な説明をすることはできません。

 

しかしながら、普段の生活において「科学は思い込みだ」と言う人はあまりいません。

その理由として考えられるのは以下の2つのパターンです。

 

①科学は「客観的事実である」と考えて疑いを持たないスタンスか、あるいは、

②「客観的事実というものは存在しないし、科学もそうなんだが、そう言ってしまうと生活が成り立たないのでいったん事実ということにしておこう」というスタンスです。

 

言いかえると、「思い込みだということを知らない」と「思い込みだということを知っている」という違いでしょうか。

 

◆「思い込みだということを知る」とはどういうことか

ここで、こういう問いになります。

「思い込み」だと知るためにはどのような条件が必要か。

 

「『それは思い込みだ』と指摘される第三者が必要」という意見がありましたが、

「自分ひとりでも『あれは思い込みだったな』と振り返ることがある」という意見も。

いずれにせよ、だとすると、「思い込み」している段階では、当の本人は「思い込み」だとは感じていない、ということでしょうか。

 

「思い込み」の正体にだんだん近づいていっている気がします。

 

哲学カフェはまだまだ続きますが、長くなってきましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。

 

では、また!