<日々の過ごし方そのものが変わってしまうかもしれない存在、哲学的問いの宝庫かと>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。
◆感想続き
<メタバースが流行する社会背景>
筆者は「『大きな物語』から『ポストモダン』への変換」という表現を用いていますが、簡単に言うと国家や宗教という集団が示す指針(大きな物語)に従って生きていけばよかった時代から、何をしても自由だが一方で何をしても自己責任という、グローバル自由競争の時代に突入した社会背景に注目しています。
個人主義時代の社会的考察は多くの論に触れられてなじんでいますが、「自分らしく」「人生を楽しまなくてはならない」「何者かにならないといけない」という観念が若者を中心に強く、それがプレッシャーというかストレスにもなっているという話はよく聞きます。
多様性を受け入れる社会と言いつつも、同時進行で究極の競争社会でもある現代、息つく暇があまりなくなって、疲れてしまっているのは私だけではないはず、、。
そんな疲れの受け皿として、現在はSNSという存在があります。趣味を同じくする人、気の合う人がつながって、疲れる日常をいっとき忘れてコミュニケーションを楽しむ。
そんなSNSの本質を筆者は「つながり」ではなく、「その他とのつながりとの排除」であると分析します。
なるほど、リアルでは合わない人ともなんとかやっていかなくてはいけませんが、SNSでできたグループ内では気の合う人だけでやれる世界。
「フィルターバブル」という言葉は昨年ぐらいに私も知りましたが、筆者によるとSNSは「不完全なフィルターバブル」で、メタバースこそ「究極のフィルターバブル」になりうると予測しています。
確かに、リクライニングチェアに座って、ヘッドマウントディスプレイをして、リアルとは異なったもうひとつの、完全に別世界に没入してしまえます。
そしてそこに自分の望み通りの居心地の良い社会があった時、疲れるリアルの回避先(=サンクチュアリ)であるだろうと思います。
そうやってメタバース内で様々な欲望が満たされることがわかってくれば、リアルのレジャーは必要ない、と思えるようになるかもしれません。
頑張ってお金を貯めて旅行をしたりテーマパークに行ったりしなくても、お金をかけずにそこそこ楽しめるならそれでいいと思えたら、アクセク働かずに、自分のメタバースライフが維持できるぐらいの収入があればいい、と、さっさと究極の競争を降りていく人が出てくる可能性も考えられます。
メタバースはそもそもオンラインゲームを基にしていることが多いようなので、日々何かしらのチャレンジを楽しめるし、チャレンジが難しくても、自分の都合のいいように難易度を設定できます。苦労をせずに、達成感をそれなりに味わう。何と都合の良い世界でしょうか。
メタバース内で「職人」が現れ、アイテムや家具を供給したりするようになると、商売ができてしまい、それが仕事になる人たちも出てくるでしょう。
しかしちょっと待てよ、とも思います。メタバースにもっと多くの人が参加し、大きな社会になっていくと、せっかくのフィルターバブルがバブルでなくなってしまうということはないのでしょうか?という疑問を生じます。
できる人は多くのことを達成し、メタバース内でも人間関係や格差社会に悩まされる、ということにならないでしょうか。
筆者はそこの懸念にも触れていますが、AIの存在をうまく活用することで、そのストレスは回避できるかもしれませんね。
極論すると、自分以外のアバターは全部AIで、違和感なくその社会で過ごすことができれば無敵だろうと思います。あらゆる部分を「いいとこどり」できる。
しかしちょっと待てよ(再)、それで人生、楽しいのか??それで本当にいいのか?
その問いは、哲学的レベルになってきますね。
自分が生きている意義目的など、究極的には何も無いから、死ぬまでのあいだ、人に迷惑をかけないで楽しく過ごせればそれでいいのではと言われると返す言葉が無いですからね、、。
以前、仲間内でこの話をしたときに、「メタバースに入っている時に家が火事になっても気づかない」とか、「目が疲れそう」とか、そんな至極まっとうな話が出てきましたあ、そんな話は野暮なのでしょうか?(笑)
いずれにしても、GAFAが、とりわけFacebookが「メタ」と社名を変更してまで社運をかけてこの世界をつくりだそうとしているほど、近い将来当たり前に訪れることになるであろうメタバースという存在。
恐ろしくももありますが、楽しみに待ちたいなぁと思っています。
以上で感想を終えたいと思います!
では、また!