ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第67回「ツッコミ」②

<ツッコむ側が「正したい!」と思うかどうか>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

今日は前回の続きで

「ツッコミ」

について書いていきたいと思います。

 

前回の内容はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

前回書いた内容としては、以下のようなものです。 

・ツッコミとは、ボケを見つけ、指摘する行為

・観察眼や注意力、対象への関心が必要

・ボケている人と、ボケているわけではない人へのツッコミ

・ツッコミとはツッコむ側の感覚

・ツッコむ側が「普通はそうはならんやろ」という感覚

 

◆「普通はそうはならんやろ」

ツッコミは、「普通はそうはならんやろ」という違和感から発するものだとすると、「普通」というのはどういうことでしょうか。

 

真冬に「ガリガリ君」を食べている人に対して、「寒いのにガリガリ君食うな!」というツッコミは、「真冬にガリガリ君は食べない」=「普通」ということ。

しかし、ガリガリ君を食べているほうの人が、ガリガリ君を食べることは「普通」と思っていた場合は、このツッコミは笑いになりません。

 

ということは、「普通」は「ツッコむ側の感覚」ということになりそうです。

そして、この「普通」というのは、ツッコまれる側を「普通でない」とみなしているので、そこには、笑えないツッコミというのもあるだろう、という意見がありました。

 

◆笑えないツッコミ

ツッコミによって、笑えるものと笑えないものがある、という意見がありましたが、その差ってなんだろう?という話になりました。

 

先述のガリガリ君の例のような、お互いの価値観がただ違うだけの場合、「え?なんでおかしいの?」という反応で終わってしまいます。

 

笑えないツッコミとして、

「おかしいだろ!」という、「憤りとしてのツッコミ」、「批判的」という意見がありました。

いっぽうで、笑えるツッコミとして、

「相手を突き飛ばさず、土俵の中にとどめる」「ちょっとした訂正」というものがありました。

 

◆ツッコミの目的

笑えるツッコミ、笑えないツッコミ、について話していると、

「結局、ツッコミって、何のために行うのか?」「どうしてツッコむのか?」という当然の疑問が出てきます。

 

ボケている人に対しては、ツッコんであげる=ボケを拾って笑いに変える、という漫才的なものがあると思いますが、

そうでない場合、ツッコむ側の「違和感を何とかしたい」という思いがあるように感じました。

 

「違和感に介入しないと、気持ちが落ち着かない」という意見を出した方は、

「テレビに対して、ひとりでツッコんでいる」という、あるあるの持ち主でした。

 

「相手に対する違和感を、正そうとする行為」、また、「自己防衛反応」という意見がありました。

「マウンティング行為」という側面もあるのではないか、というのも。

 

◆終わりです。

このほかにも、

・地域差(東西差)や世代など、環境の違い

・相手に聞かれているか、聞かれていないか

・ツッコミをしない人はどんな人?

・介入しない、突き放すツッコミ

・ツッコミとは「興味を深めたい」=哲学

・称賛の「ツッコミ」

などなど、色んな話題が生まれました。

 

今回も、問いが問いを生んでいき、話が途切れていかない展開となり、とても楽しい回となりました。

 

以上で、今回の哲学カフェの振り返りを終えたいと思います。

ありがとうございました。

では、また!