<ツッコむ側が「正したい!」と思うかどうか>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「ツッコミ」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・ツッコミとは、ボケを見つけ、指摘する行為
・観察眼や注意力、対象への関心が必要
・ボケている人と、ボケているわけではない人へのツッコミ
・ツッコミとはツッコむ側の感覚
・ツッコむ側が「普通はそうはならんやろ」という感覚
◆「普通はそうはならんやろ」
ツッコミは、「普通はそうはならんやろ」という違和感から発するものだとすると、「普通」というのはどういうことでしょうか。
真冬に「ガリガリ君」を食べている人に対して、「寒いのにガリガリ君食うな!」というツッコミは、「真冬にガリガリ君は食べない」=「普通」ということ。
しかし、ガリガリ君を食べているほうの人が、ガリガリ君を食べることは「普通」と思っていた場合は、このツッコミは笑いになりません。
ということは、「普通」は「ツッコむ側の感覚」ということになりそうです。
そして、この「普通」というのは、ツッコまれる側を「普通でない」とみなしているので、そこには、笑えないツッコミというのもあるだろう、という意見がありました。
◆笑えないツッコミ
ツッコミによって、笑えるものと笑えないものがある、という意見がありましたが、その差ってなんだろう?という話になりました。
先述のガリガリ君の例のような、お互いの価値観がただ違うだけの場合、「え?なんでおかしいの?」という反応で終わってしまいます。
笑えないツッコミとして、
「おかしいだろ!」という、「憤りとしてのツッコミ」、「批判的」という意見がありました。
いっぽうで、笑えるツッコミとして、
「相手を突き飛ばさず、土俵の中にとどめる」「ちょっとした訂正」というものがありました。
◆ツッコミの目的
笑えるツッコミ、笑えないツッコミ、について話していると、
「結局、ツッコミって、何のために行うのか?」「どうしてツッコむのか?」という当然の疑問が出てきます。
ボケている人に対しては、ツッコんであげる=ボケを拾って笑いに変える、という漫才的なものがあると思いますが、
そうでない場合、ツッコむ側の「違和感を何とかしたい」という思いがあるように感じました。
「違和感に介入しないと、気持ちが落ち着かない」という意見を出した方は、
「テレビに対して、ひとりでツッコんでいる」という、あるあるの持ち主でした。
「相手に対する違和感を、正そうとする行為」、また、「自己防衛反応」という意見がありました。
「マウンティング行為」という側面もあるのではないか、というのも。
◆終わりです。
このほかにも、
・地域差(東西差)や世代など、環境の違い
・相手に聞かれているか、聞かれていないか
・ツッコミをしない人はどんな人?
・介入しない、突き放すツッコミ
・ツッコミとは「興味を深めたい」=哲学
・称賛の「ツッコミ」
などなど、色んな話題が生まれました。
今回も、問いが問いを生んでいき、話が途切れていかない展開となり、とても楽しい回となりました。
以上で、今回の哲学カフェの振り返りを終えたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!