ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」デヴィッド・グレーバー③

<無意味な仕事とはどういうことかについて考える>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。

 

◆感想つづき

「ブルシット・ジョブ」について、筆者は具体的な3つの問いに挑んでいきます。

・個人的問い:なぜ人々はブルシット・ジョブに同意し、耐えているのか?
・社会的問い:ブルシット・ジョブを増殖させている大きな力とはどのようなものか?
・文化的問い:なぜ経済のブルシット化が社会問題とみなされないのか?

 

次に、どうしてブルシット・ジョブは無くならないのか、という問いについてです。

「不要物の押し売り」については、昨日も書きました、供給>需要の構図が続いていること、その中で余剰利益をひねり出そうとすること、で説明できそうです。

目に見えるところから鉱石はあらかた取り尽くした山で、残りの10%の鉱石を探し出すためにはいままでの何倍もの手間やコストが掛かるものです。

 

では、「取り巻き」や「尻ぬぐい」などの仕事についてはどうでしょうか?

 

これらについては、「経済合理性」という言葉がしっくりきそうな気がします。

「尻ぬぐい」の例として、例えば企業の進捗管理システムに不具合が見つかって、あるデータを入力する際にエラーが起こり余分な作業負荷かかかってしまうとします。

しかしそれを改修するには膨大なコストが掛かってしまい、それをするより、誰かを雇ってその余分な作業を代行させるとか、あるいは、入力する現場の人間にやらせてしまう、というようなことです。

 

「余分な作業」をさせられる担当者にとっては、「ブルシット・ジョブ」になりますが、会社全体としてはその方が合理的であるからそれを続ける、という構図です。

 

ブルシット・ジョブの最初の定義で、「無意味で、不必要で、、」という言葉がありましたが、この「無意味」や「不必要」という言葉自体を問う必要があると私は思いました。

 

この本の後半部分に述べられている「政治的なこと」についても興味深く読ませていただきました。

「政治的とは?」を問うてみると、筆者が言う通り、やはりなんとも説明しがたい複雑怪奇なもの、という感じですね。

なんだか、「経済合理性」とは別の合理性で動いているもののような気がします。

経営会議の時に、その重役が質問されたとき答えられるために同行させられる部下のような仕事、あるいは「大名行列」と呼ばれるような、重役の現場視察に随行させられる業務。いずれもブルシット・ジョブのように思えますが、これがあることで、自分の会社が維持できているという側面も否定できません。

 

「役に立つ」「役に立たない」という言葉は、個々と全体、部門と部門、とらえ方によってすっかり変わってしまう、これがブルシット・ジョブの難しいところで、ブルシット・ジョブが無くならない要因にもなっているのではないでしょうか。

 

日本には「必要悪」という言葉があるように、「悪」の要素を含んでいるのも事実としてあります。

例えば、尻ぬぐいによって生じるクレーム対応などのブルシット・ジョブを担当する人間が残業や精神的苦痛を味わうことで、健康被害を生じてしまうとか。あるいは、行き過ぎた「押し売り」によって、詐欺などの犯罪行為に走ってしまうことも考えられます。

 

法令違反をしているかしていないか、という線引きは難しくないかもしれないですが、無意味な仕事で従業員が苦痛を感じているかどうか、というのは、すぐ近くの人以外はわかりにくいというのもありますしね。

 

今日も、長期戦を終えるところまではいきませんでした。

そろそろ終わりたいので、次回は最後の問いである「待遇が良いブルシット・ジョブと、待遇が悪いエッセンシャル・ワーク」について感想を書いていきたいと思っています。

 

ありがとうございました。

 

では、また!