<「特殊な例」に押しやられている人の事情に、どう想像を及ぼすのか>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、先日に引き続き、この本の感想を書いていきたいと思います。
今日は、もう少しじっくりと感想を書いていきたいと思います。
※ここからはネタバレになります。ご注意ください。
◆寺井啓喜の章
1つ目の主人公である寺井啓喜の章は、検事でもある寺井啓喜本人の「正しさ」と、周囲の人間との「正しさ」がかみ合わないことで起こる様々な摩擦を観察することができます。
まず、同僚の越川という男との対比があります。彼は啓喜とは違い、加害者の立場や心理を理解しようと努めるところがあります。
蛇口を壊した犯人に対し、「水がほとばしるところを見たかった」という犯人の証言を、「そんな欲望もあるかもしれない」と考えようとする越川と、「そんなことは蛇口を転売する言い訳にしか過ぎない」と既存の自分の枠内でしか物事を考えられない啓喜との違いです。
家庭では、不登校になっている息子の泰希と、それに向き合おうとする妻の由美に対する、啓喜の態度も一貫しています。
「学校に行かないと、レールを踏み外してしまい、将来の貧困・犯罪への道から抜け出せなくなるから、学校に戻してやるのは親の責任だ」という彼の持論は、犯罪者を多くみてきた検事ならではの「真実」がこもっているので、一方的に啓喜の言動を責めることもできません。
しかし、泰希は今、不登校ながらも友達との動画配信という「打ち込めるもの」を見つけたことで活き活きとして日々前向きになれているのに、それを頭ごなしに否定する啓喜に対し「この人に何を言っても無駄だ」と感じるのも、無理がありません。
「泰希(or由美)の顔面の肉が、重力に負けていった」という表現が象徴的に何度か使われていて、泰希が父に、由美が夫に、何を言っても無駄だ、わかってもらえない、という「諦め」の気持ちを表しています。
啓喜は社会が「正しい」としているレールから外れた者のことを「この世のバグ」と呼びます。
この世のバグ成分である人が、やがて犯罪を起こす。迷惑を掛けられてしまう被害者のために、バグはしっかり罰すること、隔離することを自分の義務であると感じています。
読んでいると、啓喜の論調はけっこう極論のように思えて、少し不快感を覚えてしまいますが、ここにも朝井リョウさんなりのロジックがあって、「そういうところがみなさんにもありませんか?」という問いかけを含んでいると思います。
ここでは、「水がほとばしる」というかなり特殊なケースで表現されていますが、
例えば、自分に小さな子どもがいて近所に児童にイタズラをする常習犯がいたら、同僚に盗撮・盗聴趣味の人間がいたら、どう思うか、等を考えてみると、、。
少なくとも「自分の周囲からは消えてほしい」と思うはずです。
「そういう奴らは社会から排除すべきだ、できるだけ隔離されてほしい」と感じる人もいると思います。
いっぽう、「法に則り罰を与えることが、本当に社会正義であるのだろうか?」という疑問にも気づかされます。
例えば万引きの常習犯に対し、万引き行為自体が快感となってしまっているのであれば、罰を与えてたとしても病気なので再犯する人たちに、罰を与え続けることに意味があるのだろうか、という疑問です。
啓喜はまったく理解しようとしない、また想像を及ばせようともしない、「特殊な部類に押しやられている人々の事情」にスポットを当ててくる、というところが、この物語の大きなテーマになっています。
というところで長くなってきましたので、続きの部分は日を改めて書いていきたいと思います。
では、また!