ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第74回 絵本哲学カフェ「もこ もこもこ」②

<カバーは大事!>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

今日は前回の続きで

「絵本哲学カフェ:もこ もこもこ」

について書いていきたいと思います。

 

前回の内容はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆感想続きです。

いちばん最後の30頁の絵の右側(背表紙の裏側)にある「もこ」。

この「もこ」は、何もなくなった世界から、新しい芽が出てくるという、未来への希望を感じさせるシーンとなっていますが、

この「もこ」は、なんとカバーに隠れている。という発見がありました。

 

自分は中古本を買ったので、元々カバーがありませんでした。

だから、自然に最後の「もこ」があったのですが、

カバー付きの新刊を買った方は、言われるまで、最後の「もこ」があることに気付かなかったことで発覚しました。

 

ということは、カバーを外さないで読み終えた人は、最後の「もこ」を認識しないことになり、その前の28頁、「しーん」がラストシーンになってしまいます。

 

これはカバーを使ったトリックであると考えられ、40年も前にこの仕込みがあったことなかなかすごいことですが、それよりも、

「最後の『もこ』を見つけられないことで、読後の印象が全然変わってしまうが、それでいいのか??」

という意見がありました。

 

最後の「もこ」が無いと、すべてが絶滅した「無の世界」で終わるので、虚しさは感じますが、確かに物語としてそれはそれで「結」になり得ます。

しかし最後の「もこ」を発見したことで、印象の変化を楽しむことができ、それはある意味ボーナスであるという解釈もできます。

 

「奥付表記が絵の左側にあることから、『映画のエンドロール後に出てくる映像』みたいなものだ」という意見がありましたが、そう考えるとしっくりきますね。

 

また、色の使い方にも、様々な意見がありました。

主役の「もこ」は「にょきにょき」を食べるシーンまでは赤や黄色の暖色系で表現されていますが、食べ終わって、その後何かを落とした段階では、もう紫色に変化してしまって、ただの山のような物体に変化しています。

「この段階で、もう『もこ』は死んでいるのではないか」という意見もあって、そう考えることもできます。

 

そうすると、表紙の「もこ」がどこにも使われていない「緑色」であることについても、気になってきます。

「この『もこ』は本編の彼と違って、新しく生まれた最後の『もこ』が育った未来の『もこ』なんじゃないか」という新説もでてきました。

 

音に関しても、いくつかの検討がありました。

 

やっぱり最初に気になった22頁の「ぱちん!」と、24頁のオノマトペがない絵についてが、皆の意見の多かったところです。

 

22頁の「引き映像」説を採ると、この爆発はかなりの大爆発なので、「ぱちん」どころではない、という意見がありました。

 

たしかにひとつの星が吹っ飛んでいるほどの大爆発なので、「ぱちん」じゃなくて「ドッカーン」級ではないかと。

そこをあえて「ぱちん!」というオノマトペを入れているところに、谷川俊太郎さんのセンスがあるのかもしれません。

子供向けであることや、全体の世界観からでしょうか。

「生き物が関係しているから」「それこそ『引き映像』であることの証拠」といった意見もありました。

 

◆終わりです。

前半の1時間もあっという間でしたが、後半の1時間もあっという間でした。

絵本哲学カフェで、誰かの力を借りながら深めていくというのは、読書会ならではの醍醐味ですね。楽しかったです。

 

これは、哲学カフェなのか?と言われると、「答えのないことについて、あーでもないこーでもないと検討し合う」点で、哲学カフェであると思います。

 

この絵本哲学カフェが成功だったことについて、

この「もこ もこもこ」作品が、子どもが読んでも、大人が深読みをしても楽しめる「傑作」であったからよかったのか、あるいは、別の作品でも楽しむことができるのか、、。

 

これは、2度目がきっとあるのでしょう、という期待を込めて、このレポートを終えたいと思います。

ありがとうございました。

 

では、また!