<カバーは大事!>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「絵本哲学カフェ:もこ もこもこ」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆感想続きです。
いちばん最後の30頁の絵の右側(背表紙の裏側)にある「もこ」。
この「もこ」は、何もなくなった世界から、新しい芽が出てくるという、未来への希望を感じさせるシーンとなっていますが、
この「もこ」は、なんとカバーに隠れている。という発見がありました。
自分は中古本を買ったので、元々カバーがありませんでした。
だから、自然に最後の「もこ」があったのですが、
カバー付きの新刊を買った方は、言われるまで、最後の「もこ」があることに気付かなかったことで発覚しました。
ということは、カバーを外さないで読み終えた人は、最後の「もこ」を認識しないことになり、その前の28頁、「しーん」がラストシーンになってしまいます。
これはカバーを使ったトリックであると考えられ、40年も前にこの仕込みがあったことなかなかすごいことですが、それよりも、
「最後の『もこ』を見つけられないことで、読後の印象が全然変わってしまうが、それでいいのか??」
という意見がありました。
最後の「もこ」が無いと、すべてが絶滅した「無の世界」で終わるので、虚しさは感じますが、確かに物語としてそれはそれで「結」になり得ます。
しかし最後の「もこ」を発見したことで、印象の変化を楽しむことができ、それはある意味ボーナスであるという解釈もできます。
「奥付表記が絵の左側にあることから、『映画のエンドロール後に出てくる映像』みたいなものだ」という意見がありましたが、そう考えるとしっくりきますね。
また、色の使い方にも、様々な意見がありました。
主役の「もこ」は「にょきにょき」を食べるシーンまでは赤や黄色の暖色系で表現されていますが、食べ終わって、その後何かを落とした段階では、もう紫色に変化してしまって、ただの山のような物体に変化しています。
「この段階で、もう『もこ』は死んでいるのではないか」という意見もあって、そう考えることもできます。
そうすると、表紙の「もこ」がどこにも使われていない「緑色」であることについても、気になってきます。
「この『もこ』は本編の彼と違って、新しく生まれた最後の『もこ』が育った未来の『もこ』なんじゃないか」という新説もでてきました。
音に関しても、いくつかの検討がありました。
やっぱり最初に気になった22頁の「ぱちん!」と、24頁のオノマトペがない絵についてが、皆の意見の多かったところです。
22頁の「引き映像」説を採ると、この爆発はかなりの大爆発なので、「ぱちん」どころではない、という意見がありました。
たしかにひとつの星が吹っ飛んでいるほどの大爆発なので、「ぱちん」じゃなくて「ドッカーン」級ではないかと。
そこをあえて「ぱちん!」というオノマトペを入れているところに、谷川俊太郎さんのセンスがあるのかもしれません。
子供向けであることや、全体の世界観からでしょうか。
「生き物が関係しているから」「それこそ『引き映像』であることの証拠」といった意見もありました。
◆終わりです。
前半の1時間もあっという間でしたが、後半の1時間もあっという間でした。
絵本哲学カフェで、誰かの力を借りながら深めていくというのは、読書会ならではの醍醐味ですね。楽しかったです。
これは、哲学カフェなのか?と言われると、「答えのないことについて、あーでもないこーでもないと検討し合う」点で、哲学カフェであると思います。
この絵本哲学カフェが成功だったことについて、
この「もこ もこもこ」作品が、子どもが読んでも、大人が深読みをしても楽しめる「傑作」であったからよかったのか、あるいは、別の作品でも楽しむことができるのか、、。
これは、2度目がきっとあるのでしょう、という期待を込めて、このレポートを終えたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!