<「本当のやりたいこと」に思い悩むことは幸せなのか>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。
前回の記事はこちら。
今日は、「ネタバレ有り」で感想を書いていきたいと思います。
重要な部分を明らかにしてしまうので、本作を読んでみたいという方は、このブログ内容を読まずに、本を読んでください。
◆感想続き
この本の最大のポイントは、やはり「ゴリラ裁判」です。
実は、この「ゴリラ裁判」は2度、行われます。
ローズがアメリカの動物園の来てからの夫、オマリが殺されてすぐ、動物園側を訴えた1回目の裁判と、この物語のラストシーンにもつながる2回目の裁判(上訴審)です。
1回目の裁判では、ゴリラが人間側を訴えるという前代未聞の裁判であり、人間中心の社会という構図を切り崩すには至りませんでした。
しかし、2回目の裁判では、ローズの本気度が違いました。
最強の弁護士、ダニエルを味方につけ、この裁判に勝つための最大の急所を教えられます。
その、最大の急所とは、「人間と動物は平等に扱われるべきだ」ではありませんでした。
なんと、「ゴリラは人間であるかどうか」でした。
アメリカはキリスト教の考えが支配的であり、「ゴリラを人間であるとみなすなど、神への冒涜だ」とする陪審員もいましたが、ダニエルは物証を重ねることで、裁判において「ゴリラは人間といえる」ことを証明しようとします。
動物が人間に襲い掛かり、人間の命が危ない場合、動物を射殺しても仕方がない、というのは通念上当たり前のように考えられていますが、もし、襲う側の動物も人間だったとしたら?と考えることで、行動はもっと慎重にならざるを得ないと思います。
この「ゴリラ裁判」においての弁護士ダニエルは、あくまで裁判というのは「法律というルールにのっとったゲーム」だとみなしているふしがあり、裁判の勝敗は正義や善悪というものとは切り離して考えているようです。
そして、そんなダニエルによって、ふだん私たちが「あたりまえ」だと思っていること自体、前提を少し変えるだけで、簡単にあやふやになってしまうのだということを思い知らされるのです。
対して、人間とゴリラを区別しないエピソードとして、印象的だったのは、動物園にやって来たローズにとって、一番最初にできた友達、韓国人系ラッパーのリリーでした。
彼女は、アメリカ白人社会においてはマイノリティであり、疎外感を味わいとても苦労した過去をふまえて、ローズに対して、人間とゴリラを区別しない、「友達」として、接してくれるところが、また、なんか良いんですよね。
そして、もうひとつ書いておきたいのが、プロレスラーとしてのローズの師匠となった、プロレス団体を主宰する、ギャビンです。
この「プロレスラーになる」というエピソードにどんな意味があったのでしょう?
ギャビンはもちろん興行主なので、客寄せの目玉としてローズを誘いました、というかローズを利用したことになります。なので、「汚い側の人間」ということができます。
しかしながらやがて、ギャビンのローズへの接し方を見るに、口は汚いがとても真剣にローズにぶつかっていくので、印象が変わってきました。
一人のプロレスラー、一人の人間として、チームメンバーのローズを𠮟咤激励していくところはまるでアントニオ猪木のよう。
そんなこんなで、夫を失い、さらに最初の裁判に負けて、生きる目標を失ってしまったローズが、なんとか自分をつなぐためにやっていたプロレスから、「本当にやりたいこと」を見つけるという旅に出ます。
物語の最後のシーン、自然の中で戯れる「普通のゴリラたち」と、「自分がやりたいこと」なんてことに思い悩むことになってしまったローズを比べて、「どっちが幸せなんだろうね?」、って考えてしまう、印象的な場面でした。
ということで、とりとめもなく書いてきましたがこの辺で「ゴリラ裁判の日」の感想を終えたいと思います。
お付き合いいただきありがとうございました。おすすめなので、ぜひ読んでみてください。
では、また!

