<「買わされ感」はどういう時?>
おはようございます!ちくわです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「買っているのか、買わされているのか」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆「必要」のあいまいさ
「『必要』は、案外その場で生まれてしまう」
という意見がありました。
後半は、その場で気付く「必要(欲しい?)」についての話題から始まりました。
販売員が売り込むテクニック、売り場や値段の話題でも盛り上がりました。
そこから、「いかに『買わされた感』を持たせないように『買わせる』か?」のような話にも。
◆「買わされ感」とは
どういう時に「買わされた」と思うのか?という問いになりました。
別のものを持っているのに、転校したのでその学校指定のランドセルを買い換えないといけなくなった、という具体例がありましたが、
自分で決めるのではなく、買うものを他者に決められている場合は「買わされ感」が出てくるようです。
また、実際に使ってみたあとで、それが期待外れだったと感じる時、という意見がありました。
◆「依存性」の「買わされる」
「依存」についての話題が出てきました。
アルコール依存の人の場合、当人にとってはアルコールは「必要」、周囲の人にとっては「不必要」となります。
タバコや麻薬、ゲームやギャンブルに置き換えることもできます。
こうした後付けの習慣に対する依存に対し、誰にとっても依存しているもの、水や空気はどうだろう、「買わされている」?という考え方も面白かったです。
◆終わりです。
哲学カフェは2時間が来たら終わりです。
このほか、「買わされる」についての思考実験的問いの提起、
「もし、お金が無尽蔵にあったら?」や「もし、お店がなかったら?」
もあったりして楽しかったです。
モノがあふれているだけでなく、モノでないデータさえもあふれてきてしまい困っているという現代、「買わされている」は身近な話題であるなぁと感じました。
以上で、今回の、みんなの日常哲学カフェ「買っているのか、買わされているのか」の振り返りを終わりたいと思います。
では、また!