<「葬る儀式」ができないこと>
おはようございます!ちくわです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「ゴミ箱に捨てられないもの」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆給料明細とか、電話番号とか
「給料明細が捨てられない」という例が出てきました。
「自分が昔頑張った証、を年を取ってから見返したい」
という理由からだそうですが、モノと思い出がセットになっているという点では、
これは、「子供の作品」に近いものがあるかもしれません。
「電話番号のデータとか」という意見もありました。
デジタルデータも、確かに、捨てられないものの具体例です。
物理的なキャパがほぼないので、捨てよう(消そう)というきっかけがつかみにくく、たまりにたまった時には、相当面倒なことになっているのも事実ですね。
◆なぜ、捨てなければいけないのか?
テーマは「捨てられないもの」ですが、そもそも「捨てなければいけないのか?」
という問いも、立ってきます。
一番の原因は、しまうところがなくなるという物理的なキャパシティなんですが。
「自分が亡くなったとき、身内が捨てられなくて困るようなものは捨てる」
「モノが多いと、何かを失くしやすい」
という意見もありました。
今回は話しませんでしたが、「ミニマリスト」が流行し「捨てすぎてしまう人の話」も昨今は耳にして、そういう心理についても考えてみると面白いかもしれません。
◆たんに「捨てる」と、「ごみ箱」に捨てる
テーマの「ごみ箱に」の部分にどうも引っかかる、という意見がありました。
確かに、ごみ箱に捨てると、生ごみやよその家のごみと一緒になって、処理場に運ばれます。
これが昔であれば、かまどとか、庭先に置いてあるドラム缶で燃やす、などということもできたかもしれません。
正月のしめ飾りは、どんど焼きで燃やしました。
この「燃やす」という行為は、人間の死者を葬るときにも用いられます。
しかし現代では、この「燃やす」ということがなかなかできる環境になく、ごみ箱に捨てるという選択肢しかほとんどありません。
スピリチュアルな意味を持つもの、お守りとか、人形とかも、この「燃やす」ことにより、手放すことが可能になります。
可能になる、というのは、ルールではなく、自分が持っている意味世界の中で、折り合いをつける行為、ということです。
◆終わりです。
哲学カフェは2時間が来たら終わりです。
「捨てられないもの」は、そのモノに対して自分の持っている意味が重要であってそうなるとただのモノとして片付かなくなる、ということが時間が経るにつれて腑に落ちてきました。
また、出てきた「捨てられないもの」にも、ここに書き切れないほどのバラエティーがあって、ワイワイ楽しく話ができました。
以上で、今回の、みんなの日常哲学カフェ「ゴミ箱に捨てられないもの」の振り返りを終わりたいと思います。
では、また!