<背徳感は現在進行形で、罪悪感は時間が経っても感じられる>
おはようございます!ちくわです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「背徳感と罪悪感」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆背徳感は現在進行形
「背徳感は現在進行形でしか感じられず、罪悪感は時間が経っても感じ続ける」
という意見がありました。
例えば不倫における背徳感はその場での現在進行形で、後になって罪悪感に変化していく、ということでしょうか。
◆「やろうと思えばできたはず」の罪悪感
「あの時、手を差し伸べていれば救えたかもしれない」というように、後悔からくる罪悪感についての話題が出てきました。
その場合、「やろうと思えばできたはず」がポイントであり、お金が無くて、自分も危険で、そういうどうしてもできない場合は、罪悪感がないのか、という話も興味深かったです。
先ほどの「SNSアカウントを聞かれたが教えなかった」罪悪感にも当てはまるのでは、という話もありました。
◆ルールを破る「背徳感」
ダイエット中に好きなものを食べていい「チートデイ」というのがあるそうです。
これによる「背徳感」は、自分で設定したルールを自分で破るという、なんとも自作自演なものですが、これでも背徳感は得られるものですね。
「『当たり前』を外れる背徳感」という表現もありました。
障子の張り替えのときに破るとき、茶碗を投げて割るサービス(?)、
普段、しないことが当たり前のことをあえてすることに、背徳感が得られます。
最後のほうに、「タブーを犯す」という言葉がでてきましたが、ここまで話してきて、しっくりきたような気がしました。
◆終わりです。
哲学カフェは2時間が来たら終わりです。
今回は似たような使い方をする言葉を並列したテーマとしましたが、最後まで話してきて、充実した哲学カフェだったという印象を持ちました。
背徳感は○○だが、罪悪感は△△だ、というような言い方が多く出てきて、そこからまた具体例が出てきて、さらに、新しい××や□□が出てくる、という感じでした。
以上で、今回の、みんなの日常哲学カフェ「背徳感と罪悪感」の振り返りを終わりたいと思います。
では、また!