<それはただのモノなのか、モノに込められた「ストーリー」なのか>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで
「断捨離」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
昨日書いた内容としては、以下のようなものです。
・断捨離はテクニック論か、精神論か
・「離」の部分=モノの執着から離れる
・モノへの執着とはどういうことか
・モノを減らすとはどういうことか
◆「捨てる」はストレス発散
「捨てるという行為は、ストレスの解消にもなる」
という意見が出てから、哲学カフェは変化がありました。
「高価なものほど捨てると気持ちがいい」
「わざわざ捨てたことをSNSでアピールする人」
「自分の一部となるほど大切なものを捨てるのは自傷行為と似ている」
確かに、部屋をふさいでいたモノを捨てた後、ほとんどの人がスッキリとした気持ちよさを感じるはず。
しかし、捨てることに対してどこかそれ以上の価値があるんじゃないのか、という話になりました。
◆あなたは何を捨てられるか、捨てられないか
このような問いがあり、メンバーそれぞれから、カジュアルにいろんな価値観の意見が出てきて、興味深かったです。
「卒業アルバム」、「神社のお守り」、「元恋人からのプレゼント」、「子どもの頃の制作」、「寄せ書き」、、
いくつか出てきて、それぞれに自分はほとんど捨てられるなぁと感じたのですが、
どうしてそう思ったか、それは、そのものに込められた「意味」・「ストーリー」を大切にしているかどうか、という話が出てきたからです。
お守りは物質的にはただの紙切れ・布切れで、意味を感じない人にとっては何の価値もありません。子どもが石を集めたり、貝を貨幣代わりに使ったりするのと似ているかもしれません。
余談ですが我が家では水槽でメダカを飼っていて、メダカが死ぬと屋外の木の下に埋めたりするのですが、一緒に飼っているミナミヌマエビは死ぬと台所の三角コーナーに入ります。その差って何だろう?と思うことはありました。
◆人間関係の断捨離
断捨離にはモノだけでなく、「デジタルデータ」や「人間関係」にも使うことがあるという話から、人間関係の整理についての話にもなりました。
「年賀状」から、「SNSのフォロー整理」、高校生の「グループLINE」、いろんな実例が出てきてこれも楽しかったです。
「名前を覚えられないから名刺をもらわない」というような「捨」ではなく「断(入り口の制限)」の話題もありました。
◆終わりです。
哲学カフェのは話の途中でも時間が来たらその時点で終わります。
今回の哲学カフェは、モノを捨てる・片づける、にはじまり、精神的な話かテクニック論か、「モノ」との関わり・距離の取り方について考え、さらに、モノに込められた「意味」について考えるに至りました。
「捨てる」ひとつとってみても、その行為に対して距離を取り、見つめ直してみるとこんなにも多くの違った意見が出てくることを実感しました。
そんな価値観の違いについて、経験を語りながらワイワイ楽しむ、哲学カフェの楽しい一面がよく出た回だったかなぁと感じました。
以上で今回の哲学カフェのレポートを終わりたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!