ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第52回「断捨離」①

<モノの執着から離れるとは?>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。

社会情勢を踏まえ、2020年より主にオンラインの場に移し、「オンライン哲学カフェ」として細々と楽しんでおります。(※今のところ、クローズドでの開催です)

今回は、第52回開催になります。

 

前回の第51回開催の記事はこちらになります。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆「哲学カフェ」とは?

哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。

「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。

私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。

そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。

当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。

 

◆「Zoom」を使っています

今回も、「Zoom」を使用。

「Zoom」はすっかりおなじみですがとても使いやすいオンライン会議アプリです。

主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。

  

◆この日のテーマ

この日の参加者は10名。時間は2時間です。

オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。

しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。

(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)

今回は、いつも通りひじき氏が進行役になり、私はいつものように書記役で進めていきました。

 

この日のテーマは、メンバーの推薦により選ばれた

 「断捨離」

です。

 

「断捨離」は、片付けの代名詞として定着しましたが、実際どんな使い方をしているでしょうか。デジタルデータや人間関係の断捨離など、モノ以外の片付けにもこの言葉を使っているでしょうか。

 

では、実際出てきた意見と感想を簡単に書いていきたいと思います。

 

◆「断捨離」という言葉の使い方

とりあえず「断捨離」とはどういう風に使っているか、が話題となりました。

「そもそも断捨離という言葉はあまり使わない」

「単に『片付け』で良いのにどうして」

 

次第に「断捨離」は精神論か、テクニック論か、というような話題になりました。

この言葉がブームとなった元の「断捨離」という本には「断(入れない)」と「捨(捨てる)」と「離(モノへの執着から離れる)」というふうに書かれていたように覚えています。

 

そう考えると「断・捨」は片付け術でテクニック寄り、「離」はモノとの関わり方という精神的なものを感じます。

 

個人的には「断捨離」はこの「離」の部分のユニークさのおかげで流行した、と感じているのですが、「クローゼットを断捨離した。」というふうにただ「片付けた」の言いかえとして使用されていることも多いように感じます。

 

◆「断捨離」の本質

断捨離の本質はやはり「離」の部分にあるように感じます。

「いま、自分が、必要かどうかで判断」

「モノへの執着から離れて自由に生きる」

 

では実際、「モノへの執着」ってどういうことなのでしょうか。

「自分はモノへの執着が無いほうだ」っていう人は良く聞きますが、「執着」という言葉を使っているだけあって、「モノへの執着」というのはどこかネガティブな響きがあります。

「捨てられないもの」という言いかえをしてみるとどうでしょうか。

代表的なのが、「いつか必要な時のために」「思い出として」の2つ。でもこの「備え」や「思い出」は、果たして「執着」なのでしょうか?

それが「執着」と思うためには、「適度」という考え方とセットになっているように思います。

 

では「適度」とは?これは世間一般の基準という考え方もありますが、「キャパシティ」という意見もありました。自分の家に合ったモノの量、自分が管理可能な量という意味でしょうか。

 

「ミニマリスト」についての話題も出ましたが、持つもの・持たないものの判断軸を世間一般=他人から、自分に取り戻す、ということが肝心なのかな、と感じました。

 

「自分の趣味の範囲であれば、モノがあふれていても許せる」という意見もありました。

 

「断捨離」や「片付けの魔法」がブームになるにつれ、「モノを減らす=善」という前提が強まったように感じましたが、「それも一つの価値観」としてまた離れて見ることも必要ですね。

 

◆「捨てる」はストレス発散

「捨てるという行為は、ストレスの解消にもなる」

という意見が出てから、哲学カフェは変化がありました。

 

長くなってきましたので、後半戦は日を改めて書いていきたいと思います。

 

では、また!