みんなの日常哲学カフェ ~哲学カフェとか読書とか

哲学カフェの記録を中心に、読書記事も書いています

旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

「うまれることば、しぬことば」 酒井順子②

<コロナ禍から流行した言葉>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。

 

昨日の記事はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

 

③コロナ禍からの新しい言葉

そして、忘れてはならないのが、2020年のコロナ禍から生まれた言葉。コロナ禍は本当に多くの言葉が生まれました。

 

・コロナとの「戦い」

筆者は、この「戦おう!」という呼びかけ自体、人々を「ウットリさせる」魔力を持つ言葉であると分析しています。

 

共通の仮想敵を設定することでグループの結束を高め、皆の行動を一緒にさせるという手段は昔からの常套手段です。それが歴史的に戦争に使われたことも良く知られています。

 

果たして私たちはコロナと「戦って」いたのでしょうか。

振り返ってみれば、自分としては決して「戦って」いたという印象は無くて、コロナからは「逃げて」いて、それによって仕事面では「振り回されて」いたという感じでしょうか。

 

しかしこんな疑い深い自分でも、国としての「緊急事態宣言」が発令されたことで、これは「戦争以来の大ごとだ」と感じたものです。

外出禁止令(正確には違うが)が発されることなんて、戦争以外ではありえないと感じましたし、これは戦時中なのか、と錯覚したものです。

 

あの時を振り返って、筆者の言うところの「ウットリした」感じがあったように思います。

「戦おう!」という言葉はやっぱり危険な響きを持つ言葉であるということを実感しました。そして、今の時代だからこそ「戦おう!」以外の表現は無かったのか、と考えてしまいます。

そいう言う意味でもこのコロナの体験は貴重であったと思います。

 

・「ご理解とご協力」

改めて振り返ると、たしかにやたら「ご理解とご協力」はよく使われていたなぁと思います。

行政側から市民に行動を制限するとき、またお店側から客に向けて禁止行為をアナウンスするとき、「ご理解とご協力」は常に登場していた気がします。

 

理解はするけど協力したくない、などと考えてはいけません。ご理解とご協力はセットメニューなんです。

あまりにも聞き飽きて、このメッセージはただの常套句と化してしまった印象すらありました。例えていえば、「いつもお世話になっております。」ぐらい、空気のような印象になってしまい、これを使うことで、むしろ「ご理解とご協力」は得られないんじゃないかと思いました。

 

実はこの本の中にある見出しは、「ご迷惑とご心配」でした。これはやらかした芸能人が謝罪で使う言葉として有名な言い回しです。

これも、聞いている側(私たち一般人)は、別にご迷惑もご心配もこうむっておらず、むしろ面白がっているだけなんだけど、と感じなくもないですが、そこは「ご迷惑とご心配」と言っておけばよいらしいんです。

 

この「ご○○とご○○」っていうのは、「ご指導とご鞭撻」「ご健勝とご多幸」などというように、日本語にいくつかあってそのいずれもが空気のように使われていると考えると興味深いですね。

次いつ会うかわからない結婚する若い親戚2人に対してご指導ご鞭撻なんてたぶんしないし。

 

ということで、この文章の着地点が見えなくなってきましたが、「ご理解とご協力」は使うほうにとっては、使いやすい言葉として定着したなぁと感じたのであります。

 

コロナ禍って、本当に多くの言葉が生まれたなぁと感じます。「密」や「自粛」はもちろんのこと、「クラスター」「マスク警察」「リモート会議」、、、。思い出して、その背景を考えていくというのも、人間の行動を考えるうえで貴重なことであるような気がしました。

 

といったところで、そろそろこの感想も終わりにしたいと思います!

 

では、また!