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旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

哲学カフェに参加しました ~園田哲学Bar 「『ケッ』と思うこと」(後編)

<結局は自分の価値観?>

こんばんは。ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。

 

昨日の続き、園田哲学barの後半レポートを書いていきたいと思います。

 

お題は「『ケッ』と思うこと」。

 

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昨日の前半レポートはコチラです。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆前半まとめ

・「ケッ」は「チェッ」や「チッ」と同じように使うが、口には出さない。

・心の中で反射的に起こる感情。

・他人の場違いな行為に対して起こる

・したい事の邪魔が入った時に起こる

・期待外れの時に思う

 

こんな意見が出てきました。

後半は、少し掘り下げてこのような感情の原因を深堀していきます。

 

◆マウンティングとしての「ケッ」

・マナーの悪い行動を見つけた

・話し合いで本来の趣旨とは違うことを延々としゃべる人がいた

・レベルの低い発言や行動が目に付いたとき

・期待外れの行動を見せられた時

 

この様な時に起こる「ケッ」は、「相手を低く」見ています。

「マウンティング」という言葉が出てきましたが、これはしっくりくると思いました。

 

バカな奴、目障り、邪魔、何だよコイツ、何やってんだ、、、。

自分が期待している価値観を裏切る行動に対し、我慢できない感情とでもいうのでしょうか。

 

「ケッ」と思うことにより自尊心を高める、まああまりそれ自体は美しいものではありませんが人間の素直な感情としてはあると思います。

 

◆嫉妬心の「ケッ」

・自分が言おうとしていたことを先に言われた

・他人が楽しそうに騒いでいる

 

これなんかは、見下すというよりは、自分よりむしろ高いところにいる他人に対して抱いているので「嫉妬心」という感情であるような気がします。

 

「うらやましい!」っていうよりは、「そんなの俺には関係ねーよ」というような、相手を否定することで羨望を遠ざけようとする(わかります?)、ニュアンスかなーなんて感じました。

 

◆「ケッ」と思う人と思わない人の違い

同じような場面に出くわしても「ケッ」と思う人と思わない人がいる、参加者の中でも意見が割れる場面がありました。

 

例えば電車で小さな声で携帯電話で通話をしている人がいたとします。

 

たとえ小さな声であっても携帯電話での通話は非常に不愉快で「ケッ」と思う、という意見があります。

しかし、別の人はうるさくなければ別にいい、普通のおしゃべりのほうがもっとうるさいこともあるのでは?といいます。

 

ここから「ケッ」と思う感情は、自分の持っている価値観を通そうとする想いや、規範意識の強さが関係していると思います。

 

この日ははそこまでやりませんでしたが、ルールを重んじるか・実を重んじるか、そんな価値観の違いも、掘り下げると面白いかもしれないですね。

 

◆「自分が正しい」という感情

大阪では「エスカレーターで左を空ける」という慣習があります。

これは急いでいる人が歩くために左側を空けておく、という意味で定着しましたが、現在では危険防止のためエスカレーターで歩くことは基本的に禁じられています。

 

しかし今もその慣習は根強く残っていて、これに関する判断は人によって分かれています。

 

「エスカレーターは左を歩くものだ」と思っている人は、もし左側に立ち止まっていて前を塞いでいる人がいたら「ケッ」となります。

 

でも、当の立ち止まっている人は、「エスカレーターは歩いてはいけない」と思っているので、後ろから歩いてきて、自分の後ろで舌打ちをしている人に対して逆に、「ケッ」て思ってしまうのですね。 

 

お互い「自分が正しい」と思っており譲れない価値観で起こる事。それもこの感情の正体のひとつでしょう。

 

◆日常の「哲学的意識」について

もうちょっとつながってくる根本的な感情は無いか、、をずっと考えていたのですが、時間切れとなり終了です。

 

自分は今回このテーマに関し、あまり考えを準備しないまま臨んだのですが、何かの話題が出た際に、ああ、以前のこんな事と共通するかもと思い、とっさに発言することが何度かありました。

 

エスカレーターの例はその一つです。

日常の当たり前の光景なんですが、「当たり前」を一度取っ払ってみて、客観的に(冷静に?)考えてみると、やっぱりおかしいなと思うのです。

 

じゃあそのおかしな事が起こっているのはどうしてなの?と帰りの電車でそれについて考えたりします。

こういうことって、きっと哲学的な何かだろうと思い、一応覚えておくことにしています。そして忘れないように人に話したりします。

 

これが哲学カフェで日の目を見ることがあって、嬉しかったです。

 

話は脱線しましたが、今回の哲学カフェのレポートは以上で終わらせていただきます。

 

では、また!