<信頼とは日常生活の基礎>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
○○を信用できない、他人を信じられない、何でも自分でやってしまうタイプだ、という人は意外と多いと思います。
この「信じる」っていうのは、いったいどういうことでしょうか?
家事を子供に手伝ってもらうとすると、子供が「うまくやるだろう」と「信じて」やらせています。
いわば未来の成果に対して期待するということになりますが、では「信じられない」というのはどういうことでしょう。
洗濯物の取り込みはお願いするけど、料理を食卓まで運んでもらうことは任せられない。こぼしてやけどをする可能性があるからです。
では、「洗濯物を取り込む」と「料理を運ぶ」に起こってくる信じる・信じないの違いは、なんでしょう。
それは①失敗する確率と、②失敗した時に起こる面倒さになると思います。
料理を運ぶのは、ちょっと重いし、こぼされるとやけどの危険や、片付ける面倒さがあるので、任せられない、ということになります。
信頼とは、起こりえる未来を予測し、それに対し自分が行動を決めるということになります。
哲学者の和辻哲郎氏は、「信頼とは『分からないはずの未来に対してあらかじめ決定的な態度をとること』である」と定義しています。
信頼とは人と人の関係にあると思うのが一般的ですが、和辻氏は信頼というのはもっともっと基礎的な、生きていくうえで欠くことのできない倫理観であるともいいます。
日常生活の中で信頼がどれぐらい当たり前かを考えてみます。
・スマホのアラームで目を覚ます・・スマホが時間通りに鳴ることを信頼しているから。またそのスマホは正確な時間を指していると信頼し、
・電車に乗る・・電車は時間通りに来ることを信頼し、乗りあわせた隣の知らない人が鞄を盗らないことを信頼し、電車が事故を起こさないことを信頼し、つり革がちぎれないことを信頼し、、
・仕事をする・・今日も働いたらお金を貰えることを信頼し、コンピュータのボタンを押したら商品が運ばれることを信頼し、トイレの流すボタンを押したら水が流れることを信頼し、、
もしも「信頼」というものがが無かったら、自分が起こしている行動が何ひとつできないことに気づきます。
そのぐらい無意識の中にも信頼は浸透しているのですね。
戻って、「信頼する」に対し、「失敗する確率」を考えるということを書きましたが、確率にもいろいろあります。
降水確率が50%であるならば、傘をもっていきます。雨が降ったらどうなるか、も知っています。
飛行機の墜落確率が何十万分の一だから、飛行機に乗ります。
いつも飲んでいる薬の副作用が、百万人に1人が重篤なものであるとしても、薬を飲みます。
この辺になると確率はよくわからないけどけっこう「経験的にこうだから」、っていうことを根拠にしていないでしょうか。
もっとこの辺を考えていきたいですけれど、時間になりましたので、今日はこのぐらいにしておきます。
では、また!
では、また!