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「原子力時代における哲学」國分功一郎②

<あくまで人間は自然の一部であって支配者ではない>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

今日は、この本の続きについて書いていきたいと思います。

原子力時代における哲学 (犀の教室)

 

昨日は、原子力発電は決して低コストではなく、さらに事故リスクや核廃棄物の未来を鑑みて、将来的に不要であると考えるのが合理的であるいうこと、しかしその前提が判明した現在に至っても、原子力発電は以前からの「希少性の高いエネルギーを、半永久的に生み出す魔法を支配できる」という「信仰」が続いていると書いてきました。

 

そして、これからの原子力とどう付き合っていくか、について、ハイデガーの「放下」を読み解きながら一緒に考えていきましょう、というのがこの本の中心となっています。

 

しかしながら、この「放下」については、結構わかりやすく書かれていると思うのですが、それでも私にとっては難しく、また知識がなさ過ぎてあれこれと論じることができません。

なので、ざっくりとした感想を書くにとどめておきます。

  

◆「自然」を「支配する」という考え方

非常にざっくり言うと、「自然と人間との付き合い方をもう一度見つめ直そう」ということになるのではないでしょうか。

 

本来自然と人間との関係は、(私はこの『本来』という言葉があまり好きではありませんが、そんなニュアンスなので)、自然が圧倒的な力を持っていて人間はその自然の一部として、その圧倒的な自然の力のおこぼれの一部を預かって生きていく、というものでした。

 

科学技術というものも、水力や風力発電に見られるように、川や風が通る道から一部エネルギーを取り出しているだけ、であったのですが、原子力の時代になって初めてその自然現象を利用するではなく、その自然現象を司る大元を人間が解明し操作しようという領域になってきています。

 

ハイデガーの言葉を借りると、人間が自然をガソリンスタンドのように扱うというように、「自然」と「人間」の主従関係を逆転させようとしている、壮大な勘違いを起こしてしまっている、そのきっかけとなったのが原子力ではないか、ということですね。

 

原子力技術に手を付け、科学技術の急速な発展を目の当たりにした人類は、どこか全能感のようなものを盲信し、原子力発電の開発に突き進んでしまったのではないでしょうか。

 

それから60年以上を経て起こった日本におけるこの悲惨な原発事故は、「自然はそういうものではない」、ということを再び思い出させる象徴的な出来事になったのではないかと思います。

 

だから、これからのエネルギー方針については、「自然を支配する」という勘違いを起こさせる原子力開発を一旦捨てて、太陽光や水力・風力などの「自然を利用させてもらう」立場にもう一度立ち返るのが重要ではないかと、本著にはそこまでの提言には至っていませんが、そういうふうに続くと考えるのが自然かと思います。

 

著書の中に原子炉を指して「小さな太陽」と表現されていましたが、わざわざ小さな太陽を作らずとも、この地球には元々の太陽のエネルギーが、無尽蔵に、無償で降り注いでいます。

大きい方の太陽を、直接的にも間接的にも、もっと「活用させてもらう」技術も整ってきましたので、ますます原子力発電を活用する合理性が無くなっているように思います。

そもそも発電というものは、電気を起こしてエネルギーを活用することが目的なので、別に全能感とか必要ないですからね。

 

すいません、ハイデガーとか、もっと書いてあったのに、ほとんど触れずに感想を終わってしまいます。

 

この本をきっかけに、自然と人間の付き合い方について、考え直すことが出来て良かったということで。

 

では、また!