<生まれとは?受け入れるとは?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今回は第26回となります。
前回の第25回「人はなぜ旅に出るのか?」の模様はこちら。
◆「哲学カフェ」とは?
哲学カフェとは、おもに身近なことがらについて、みんなで自由に意見を出し合う対話の場です。
ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話しをしているわけではなく、「『普通』って何?」だとか、「『苦労』は買ってでもしたほうがいいの?」だとか、誰でも身近にありながら、答えがなかったり人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えない話題についてじっくり語り合うという活動です。
◆今回も「Zoom」を使いました
今回も前回同様、「Zoom」を使用。
「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリです。
主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。
◆この日のテーマは「自分の生まれは受け入れるしかないのか?」
この日の参加者は7名。時間は2時間です。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。
しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。
(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)
今回の進行役は、いつものひじき部長がお休みのため、私が務めさせていただきました。
ZOOMのチャット画面にメモを残していく書記係を兼任していましたが、後半はメンバーに代わってもらいました。
この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた
「自分の生まれは受け入れるしかないのか?」
です。
今回はちょっと難しいと思われるタイトルのため、まずはこのお題を提案したメンバーに、この問いについてほぐしていく、前半はそんな時間であったように思います。
◆「生まれ」と「受け入れる」
たしかに、テーマについて語り合う以上、テーマの意図するところがよくわからないと語り合うことができませんので、まずはそこから尋ねてみることにしました。
出題したメンバーに問いかけたところ、第13回「自己責任」の回で起こった「貧困や肥満は自己責任なの?」というトピックに触れ、「それは生まれ育ちの外部環境によるものが大きく、自己責任と言い切れないのでは」、などと話したことを思い出し語ります。
たしかに自分の生まれについて、貧困や病気など恵まれない環境を跳ね返して努力し、大きな仕事をした人は大勢います。
半面、なかなかその状況を抜け出せない人も多くいます。
その違いについて考えてみたい、ということのようです。
まずメンバーはそれぞれ、「生まれ」や「受け入れる」といった言葉について問いを作っていくことになりました。
そもそも「生まれ」って何なのか?
マルコムXの例を出したメンバーは、「黒人だから、なりたい職にに就けない」といった人種差別を例に出します。
人種や階級によって、平等に扱われない事実は確かに「生まれ」による不平等です。
それは自分だけの力でなかなかどうこうできるものではありません。
しかし、それとは別に、生まれ持った能力、身体的特徴などの差がもたらすものならばどうでしょうか。
「才能」という言葉を例に出したメンバーがいましたが、それは全くどうしようもないということではなくて、「努力」というものである程度カバーすることができます。
ということは、「生まれ」と呼んでいるものの正体は、「身の上」「周囲の環境」と言い換えることはできないでしょうか。
では、それを「受け入れる」とはどういうことでしょうか?
「受け入れない」ということはどういうことでしょうか?
まずは違いを認め、その差を埋めようとすること、それは「受け入れない」ということではなく、いったん「受け入れる」ということに他ならないでしょうか?
そうすると、「自分を」「受け入れない」ということは、どこか矛盾した話しになりはしないか?
といった話の展開になってきました。
では、美容整形手術をする人は、「受け入れている」?「受け入れていない」?
メンバー一同、方向性のいまいち見えない議論に対し、いろんな実例を持ち出し、考えてみます。
実は最後まで、そのような「問い」に「問い」が重なる探り探り状態が続いたのですが、これはこれで楽しかったです。
哲学カフェというのは、問いを重ね、ともに考えること自体を楽しむことがメインであって、何らかの結果(結論めいたもの)を得られることは副産物であると思っています。
最初の問い(テーマ)の表現についてもうちょっと工夫が必要だったな、という反省はありましたが、それは次回以降に活かすとしましょう。
今回の哲学カフェの振り返りは以上となります。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
では、また!